義晴との攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 08:09 UTC 版)
8月20日、朝廷は年号を大永から享禄に改めたが、この改元を義晴方とは交渉したもの、義維方には諮っていなかった。そのため、義維方はこれに抗議する形で、大永の年号を11月に至るまでの3ヶ月間使用し続けた。 10月、義晴が細川尹賢、六角定頼、朝倉教景ら5万人の軍勢とともに入京した。さらに、義維方の畠山義堯を破り、西岡まで進出したものの、三好元長と柳本賢治が挟撃し、19日にこれを破った。その後、両軍はともに入京し、義晴と元長との間で交渉が行われた。 大永8年(享禄元年、1528年)1月17日、三好元長は六角定頼の仲介を受け、義晴と和睦した。このとき、元長が義晴の滞在していた東寺を訪問して、義晴と面会している。だが、柳本賢治がこれに反発したほか、三好政長も賢治に同調して28日に京を去った。 この和睦は義晴方では高国が推進しており、元長は和睦を反故にすることはないと考えていた。だが、2月9日には晴元もこの和睦に反対していることが判明した。そのうえ、3月19日には元長が失脚し、四国に下向するという噂が流れた。 5月14日、高国が失脚して京都から逃亡したのち、義晴は軍勢2万(うち1万は六角勢)とともに近江坂本に移った。和睦交渉自体は晴元と義晴方の六角定頼との間で継続されたが、堺の義維が阿波に退却しなかったため、義晴は晴元を疑うようになった。そして、7月に元長が京において、地子銭の徴収を強行したため、交渉が決裂した。 9月、義晴が近江坂本から山間部の朽木に移動した。以後、畿内は和泉堺の義維・晴元方と、近江朽木の義晴・高国方に二分され、両勢力が並立することになった。 享禄2年(1529年)10月、元長が柳本賢治との権力争いに敗れ、阿波に帰国した。賢治は松井宗信とともに京都を支配し、翌年から義晴方の伊勢貞忠との間で和睦交渉を行った。 享禄3年(1530年)5月、義維と晴元、可竹軒周聡が和睦に反対し、賢治と宗信は面目を失い、出家した。その後、賢治は細川高国討伐のために出陣したが、6月29日に山伏に殺害された。 8月、高国が播磨守護代の浦上村宗と共に摂津に侵入し、9月に富松を、10月に尼崎を攻略した。これにより、義晴が六角定頼とともにこれに呼応し、上洛を企てた。そのため、晴元は元長に対し、畿内への出陣を求めた。 享禄4年(1531年)2月21日、元長が晴元の求めに応じて阿波から堺に渡海し、後陣の細川持隆の軍勢を待った。 3月10日、元長は南下して堺を攻撃した高国方を破り、これを天王寺・今宮・木津・難波・住吉に押し返した。25日に元長は細川持隆を得たことにより、閏5月には攻勢に出た。 6月4日、晴元方は摂津の天王寺において、細川高国方の軍勢を破り、8日に高国を自害に追いやった(大物崩れ)。これにより、高国を支柱としていた義晴に大きな打撃を与えるとともに、義維は軍事的優位に立ち、将軍就任も間近になるかと思われた。だが、堺公方はその後、内紛に陥った。
※この「義晴との攻防」の解説は、「足利義維」の解説の一部です。
「義晴との攻防」を含む「足利義維」の記事については、「足利義維」の概要を参照ください。
- 義晴との攻防のページへのリンク