終戦後とその死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 05:36 UTC 版)
「リヒャルト・シュトラウス」の記事における「終戦後とその死」の解説
終戦後、シュトラウスは裁判の被告となったこともあり、表だった活動は控えていたが、周囲からのすすめもあり、ロンドン公演を実施している。イギリス人にとってもはやシュトラウスは“過去の人”であったが、自ら指揮棒を持ち健在ぶりをアピールしている。このときの演目は『家庭交響曲』(シュトラウス本人は『アルプス交響曲』を希望したが、当日に別の演奏会があったためにオーケストラ人員が確保できなかった)。なおこの時、ロンドンの行く先々で「あなたがあの『美しく青きドナウ』の作曲者ですか?」と、尋ねられたという逸話が残されている(英国は非ドイツ語圏で最大のヨハン・シュトラウス協会を持つウィンナワルツ愛好国である)。 1948年、時間をもてあましていたシュトラウスは家族に薦められて最後の作品のひとつである『4つの最後の歌』を作曲した(出版はシュトラウスの死後。実際にはその後もいくつかの歌曲が書かれた)。シュトラウスは生涯を通じて数多くの歌曲を書いたが、これは恐らくシュトラウスの歌曲の中でもっとも有名なものの1つであろう。すでにシュトックハウゼン、ブーレーズ、ノーノ、ケージといった前衛作曲家達が登場し始めていた時代にあって、シュトラウスの作品はあまりにも古風で時代遅れであった。シュトラウス自身も戦後すぐの放送インタビューで「私はもう過去の作曲家であり、私が今まで長生きしていることは偶然に過ぎない」と語った。にも関わらず、この歌曲集は聴衆からも演奏家からも高い人気を誇っている。他の作品においても、同時代の評価は年数が経過するごとに見えにくくなり、彼の名も忘れ去られるどころか今なお20世紀の作曲家としては最も演奏機会の多い1人となっている。 晩年のシュトラウスは庭の花を観てよく「私がいなくなっても、花は咲き続けるよ」と呟いたという。シュトラウスの最後の作品は歌曲「あおい」であった。 シュトラウスは1949年9月8日、ドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェンで死去した。遺言により、葬儀では『ばらの騎士』第3幕の三重唱が演奏された。
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