細川ガラシャ隠遁地
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天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が織田信長に対して本能寺の変を起こした。明智光秀の三女である玉(後の細川ガラシャ)は細川忠興に嫁いでいたが、玉は謀反人の娘とされて味土野に幽閉された。玉は2人の幼子を宮津城に残して隠棲生活を送ることとなったが、村人との交流の中で落ち着きを取り戻した。玉の幽閉中には味土野で疫病が流行したことがあったが、玉が自詠の歌「いかでかは 御裳濯川の流れ汲む 人にたたらむ 疫癘の神」を門口に貼らせると流行が収まったという逸話がある。やがて玉はキリスト教の洗礼を受け、「恩寵」の意味をもつガラシャという洗礼名を受けた。ガラシャは2年数か月を味土野で過ごした後、天正12年(1584年)3月に幽閉を解かれて大坂屋敷に戻った。 1935年(昭和10年)夏、与謝郡加悦町出身の下村寿一(東京女子高等師範学校長)らによって味土野の現地調査が行われた。細川ガラシャが味土野に隠遁していたことは、『野間郷土誌』などの記録から郷土では語り継がれていたものの、長く一般にはあまり知られていなかった。この調査の際にその事実が細川家当主の細川護立に報告され、広く明るみに出た。この現地調査の結果に基づき、与謝郡・竹野郡両郡の婦人会員と女子青年団員の活動による資金で、1936年(昭和11年)には「細川忠興夫人隠棲地」の石碑が建立された。細川護立が揮毫を行っている。幽閉地として味土野が選択された理由は定かでないが、郷土史家の芦田行雄は、「この地域は修験者の往来が多かったことから、他者を受け入れる体制があったためではないか」としている。NPO法人まちづくりサポートセンター理事長の中江忠宏は、「(味土野は)金剛童子山の登山口に位置し、多くの山伏たちが修行のために行き来するからだ。この地にガラシャの館があるのなら、これほど動静がわかる場所はない」としている。 これらの指摘に対して、玉(細川ガラシャ)は丹波国船井郡三戸野に滞在しており、丹後国の味土野幽閉説は史実としてはほとんど成立する余地がないとする反論がある。 三戸野山 きょうみる君は 夢ならで 見てあたたかき もみじ葉の映え身を隠す 野間の吉野の 奥ながら 花なき峰に 呼子鳥鳴く — 細川ガラシャが味土野で詠んだとされる歌
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