細川ガラシャ隠遁地とは? わかりやすく解説

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細川ガラシャ隠遁地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 15:46 UTC 版)

味土野」の記事における「細川ガラシャ隠遁地」の解説

天正10年1582年6月2日明智光秀織田信長に対して本能寺の変起こした明智光秀三女である玉(後の細川ガラシャ)は細川忠興嫁いでいたが、玉は謀反人の娘とされて味土野幽閉された。玉は2人幼子宮津城残して隠棲生活を送ることとなったが、村人との交流の中で落ち着き取り戻した。玉の幽閉中には味土野疫病流行したことがあったが、玉が自詠の歌「いかでか御裳濯川流れ汲む 人にたたらむ 疫癘の神」を門口に貼らせると流行収まったという逸話がある。やがて玉はキリスト教洗礼を受け、「恩寵の意味をもつガラシャという洗礼名受けたガラシャ2年か月味土野過ごした後、天正12年1584年3月幽閉解かれ大坂屋敷戻った1935年昭和10年)夏、与謝郡加悦町出身下村寿一東京女子高等師範学校長)らによって味土野現地調査が行われた。細川ガラシャ味土野隠遁していたことは、『野間郷土誌』などの記録から郷土では語り継がれいたものの、長く一般にはあまり知られていなかった。この調査の際にその事実が細川家当主細川護立報告され広く明るみ出た。この現地調査結果に基づき与謝郡竹野郡両郡の婦人会員と女子青年団員の活動による資金で、1936年昭和11年)には「細川忠興夫人隠棲地」の石碑建立された。細川護立揮毫行っている。幽閉地として味土野選択され理由定かでないが、郷土史家芦田行雄は、「この地域修験者往来多かったことから、他者受け入れ体制があったためではないか」としている。NPO法人まちづくりサポートセンター理事長中江忠宏は、「(味土野は)金剛童子山登山口位置し多く山伏たちが修行のために行き来するからだ。この地にガラシャの館があるのなら、これほど動静がわかる場所はない」としている。 これらの指摘に対して、玉(細川ガラシャ)は丹波国船井郡三戸野に滞在しており、丹後国味土野幽閉説は史実としてはほとんど成立する余地がないとする反論がある。 三戸野山 きょうみる君は 夢なら見てあたたかき もみじ映え身を隠す 野間吉野の 奥ながら 花なき峰に 呼子鳥鳴く — 細川ガラシャ味土野詠んだとされる

※この「細川ガラシャ隠遁地」の解説は、「味土野」の解説の一部です。
「細川ガラシャ隠遁地」を含む「味土野」の記事については、「味土野」の概要を参照ください。

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