細倉鉱山の閉山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/06 02:43 UTC 版)
1970年代に入り、細倉鉱山はこれまでの好調な時代とうって変わって、厳しい状況に置かれるようになった。まず1971年(昭和46年)のニクソンショックによって円高が進み、日本の非鉄金属業界の競争力を奪った。早くもニクソンショックと同じ1971年、細倉鉱山では坑内作業員の業務形態に変更が加えられ、一人の坑内員が採掘、坑内の支柱建設、そして鉱石の運搬を全てこなすといった一種の合理化がなされた。続く1972年(昭和47年)には希望退職者の募集が行われ、細倉鉱山の経営は縮小に転じた。 そのような中、1973年(昭和48年)に第一次オイルショックが発生し、その結果世界的な不況が起こり、非鉄金属の価格は暴落した。国内の非鉄金属の市況も低迷し、その結果、足尾銅山、別子銅山、生野鉱山などの著名な鉱山が閉山に追い込まれた。日本の鉱山にとって厳しい状況下、多くの鉱山を抱える三菱金属は傘下の鉱山を独立経営させる方針を固め、細倉鉱山も1976年(昭和51年)、三菱金属から切り離され、細倉鉱山株式会社が経営を担うことになった。 1978年(昭和53年)には合理化によって180名の退職者と配転者が細倉鉱山を去った。合理化によって何とか鉱山の存続を図っていた細倉鉱山であったが、1985年(昭和60年)のプラザ合意に伴う急速な円高は、国内に残っていた鉱山の競争力を急激に奪っていった。1986年(昭和61年)には国内の16鉱山が閉山し、細倉鉱山も1987年2月、まだ採掘可能な鉱石を残しながら閉山に追い込まれた。
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