第2回党大会と臨時党大会
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「第一次共産党 (日本)」の記事における「第2回党大会と臨時党大会」の解説
創立されたばかりの共産党は、1922年11月のコミンテルン第4回大会に代表2名を派遣して党の結成を報告、「コミンテルン日本支部」として承認された。翌1923年2月、千葉県市川市の料亭で第2回党大会を開き、コミンテルンの標準規約を基にした党規約を決定した。同年3月、北豊島郡石神井村(現・練馬区石神井)で臨時党大会(石神井会議)を開催し、ブハーリンが起草した「党綱領草案」(ブハーリン綱領草案)を検討したが、「君主制廃止(日本における皇室・天皇制廃止)」のスローガンが含まれていたため一致に至らず、綱領は決定されなかった。問題になった「君主制の廃止(天皇制廃止論)」に対し、古い社会主義者たちは、強く反対したのである。その結果、コミンテルンへはブハーリン綱領を採択したように報告し、内部的にはどこにも載せないことにした(「22年テーゼ」。この時点においては作成されていなかったとする見解もある)。 これ以降も、共産党は戦前・戦中の非合法政党時代に自己が作成した綱領を持つことはなく、27年テーゼ・32年テーゼなどのコミンテルン決議が綱領として位置づけられた。 折りしも1922年に政府は「過激社会運動取締法」「労働組合法」「小作争議調停法」の制定を進めていた(3法案とも成立せず)ため、共産党は1923年6月の一斉検挙まで労働組合、民主団体の3法案反対運動への組織化に取り組んだとされる。また、党の大衆組織として青年組織である「日本共産青年同盟」(共青)と労働者組織の「レフト」もこの時期結成させた。
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