穴山氏の再興と断絶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 04:02 UTC 版)
穴山氏の当主であった勝千代は天正15年(1587年)に6月に元服するが、その直後の6月7日には突如として天然痘に罹患し、病没したとされる。これにより穴山武田家は断絶した。徳川家康は武田家にゆかりのある於都摩の方(下山殿)を生母とする五男・万千代に武田氏の名跡を継がせる。 於都摩の方は武田家臣・秋山虎康の娘で、穴山信君が自身の養女として家康に侍女として進上させた女性であったという。於都摩の方は家康の側室として浜松城で天正11年(1583年)9月13日に万千代を出産し、家康の三女・振姫も出産している。於都摩の方は天正19年(1591年)10月6日に病没し、『甲斐国志』によれば万千代は信君の室である見性院が養育した。 万千代は元服すると穴山氏の遺臣(穴山衆)を家臣とし、武田家を再興、武田七郎信義を名乗った。ただし、河内領と穴山衆の支配は家康の直轄であったと考えられている。天正14年(1586年)に家康が駿府城に居城を移した関係で江尻領は徳川氏の領域に編入されたとみられている。 豊臣政権に臣従した家康が小田原合戦後の天正18年(1590年)に関東へ移封されると、信義も河内領を離れて下総国小金領三万石の領主となり、小金城(千葉県松戸市)へ入城する(この頃、信義より信吉に改名)。いずれにせよ小金領の支配も河内領と同様に家康の直属下に行われ、信吉自身は江戸詰めで在国せず、家康は信吉家臣の支配を穴山衆の万沢・帯金両氏に担わせた。文禄元年(1592年)には下総国佐倉城(千葉県佐倉市)主となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにより、家康は河内領を含む甲斐一国を再び支配する。 慶長7年(1602年)11月には常陸国水戸藩主となっているが、翌慶長8年9月に信吉は湿瘡(しっそう、皮膚病)により死去する。信吉には正室木下氏がいたが実子がいなかったため、穴山武田家は再び断絶する。
※この「穴山氏の再興と断絶」の解説は、「穴山氏」の解説の一部です。
「穴山氏の再興と断絶」を含む「穴山氏」の記事については、「穴山氏」の概要を参照ください。
- 穴山氏の再興と断絶のページへのリンク