穴山家家臣の馬場氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/10 23:54 UTC 版)
武田家親族衆で甲斐河内領の領主・穴山氏の家臣には馬場忠時(八左衛門尉)がいる。忠時は穴山信君・勝千代に仕える。天正15年(1587年)6月に勝千代が死去すると徳川家康の五男・万千代(信吉)が穴山武田氏を継承すると忠時ら穴山家臣も万千代に仕え、天正18年(1590年)に万千代の移封に伴い下総国小金・常陸国水戸へ移る。慶長8年(1603年)9月に万千代が死去すると家中では対立が発生し、忠時は改易され大久保忠隣に預けられる。慶長18年(1613年)12月12日に忠時は家康に対し忠隣の謀反を訴え、大久保家の改易の発端になったという。その後の忠時・子孫の動向は不明。
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