秋田の観光における角館の認識
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「角館のシダレザクラ」の記事における「秋田の観光における角館の認識」の解説
明治期から昭和初期にかけての日本人、特に藩政期の建造物や地割区画が多く残る当時の地方部の人々にとって、屋敷林を備えた落ち着きのある角館の町並みは、ごく日常の生活を営む普通の「住居」にしか見えず、その地域特有の特徴や特色があるとは思わず、特段意識されることはなかったと考えられている。 日本において観光が一般化した大正期から昭和初期にかけて、今日で言う旅行ガイドブックのようなものが多数出版されるようになったが、例えば1924年(大正13年)の『秋田縣案内』では、角館について次のように簡素に書かれている。 角館町は山間の都會であって…(中略)…秋田の京都、京都の高倉家より佐竹家に入り角館城主となった義隣は京洛の故郷を偲び角館の形勝は京都に酷似して居る處から地名に、小倉山、加茂川の附した又角館は梅花の名所であつて、枝垂櫻の種類に屬して荅を破らんとする頃は珠の玉を綴つて花の角館と稱される程であつたが、明治二十三年〔ママ〕の災禍に遭ひ、僅か田町の一隅に殘つて居る丈けである。 — 『秋田縣案内』1924年(大正13年)東北之産業社。 この『秋田縣案内』では「秋田の京都」「花の角館」といった、今日でも角館の特徴と言える表現が用いられているが、書籍本文全体に占める角館の割合は極わずかであり、秋田県内の観光名所として写真付きで大きく扱われているのは十和田湖、男鹿半島、田沢湖の3か所である。 昭和期に入った1929年(昭和4年)に地元角館の郷土史家武藤鐵城が著した『角館の歴史』でも、義隣や京都の話は出てくるが、武家屋敷やシダレザクラについては全く触れられておらず、角館の観光面について書かれた最初の史料記録と思われる1927年(昭和2年)の角館の観光統計が、1973年(昭和48年)に当時の角館町が編纂した自治体史の『角館誌』明治・大正時代編に記載されており、それによれば昭和2年当時の角館町内の観光統計、訪問観光客人員について、田沢湖や抱返り渓谷の訪問人員統計はあるものの、シダレザクラはおろか武家屋敷通りも調査の対象にすらなっていない。これらのことから、少なくとも昭和の中頃までは角館の町並みが秋田県を代表する観光地と捉える認識は、地元の人々の間でもなかったと言える。
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