秋田の観光における角館の認識とは? わかりやすく解説

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秋田の観光における角館の認識

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 14:41 UTC 版)

角館のシダレザクラ」の記事における「秋田の観光における角館の認識」の解説

明治期から昭和初期にかけての日本人、特に藩政期建造物地割区画多く残る当時地方部人々にとって、屋敷林備えた落ち着きのある角館町並みは、ごく日常の生活を営む普通の「住居」にしか見えず、その地域特有の特徴特色があるとは思わず、特段意識されることはなかったと考えられている。 日本において観光一般化した大正期から昭和初期にかけて、今日で言う旅行ガイドブックのようなものが多数出版されるようになったが、例え1924年大正13年)の『秋田縣案内』では、角館について次のように簡素に書かれている角館町山間都會であって…(中略)…秋田京都京都高倉家より佐竹家入り角館城となった義隣は京洛故郷を偲び角館形勝京都酷似して居る處から地名に、小倉山加茂川の附した又角館梅花名所であつて、枝垂櫻種類屬して荅を破らんとする頃は珠の玉を綴つて花の角館稱される程であつたが、明治二十三年ママ〕の災禍に遭ひ、僅か田町一隅に殘つて居る丈けである。 — 『秋田縣案内1924年大正13年東北産業社。 この『秋田縣案内』では「秋田京都」「花の角館」といった、今日でも角館特徴と言える表現用いられているが、書籍本文全体占め角館割合わずかであり、秋田県内の観光名所として写真付き大きく扱われているのは十和田湖男鹿半島田沢湖の3か所である。 昭和期入った1929年昭和4年)に地元角館郷土史家武藤鐵城著した角館歴史でも、義隣や京都の話は出てくるが、武家屋敷シダレザクラについては全く触れられておらず、角館観光面について書かれ最初史料記録思われる1927年昭和2年)の角館観光統計が、1973年昭和48年)に当時角館町編纂した自治体史の『角館誌』明治・大正時代編に記載されており、それによれば昭和2年当時角館町内の観光統計訪問観光客人員について田沢湖抱返り渓谷訪問人員統計はあるものの、シダレザクラはおろか武家屋敷通り調査の対象にすらなっていない。これらのことから、少なくとも昭和中頃までは角館町並み秋田県代表する観光地捉える認識は、地元人々の間でもなかったと言える

※この「秋田の観光における角館の認識」の解説は、「角館のシダレザクラ」の解説の一部です。
「秋田の観光における角館の認識」を含む「角館のシダレザクラ」の記事については、「角館のシダレザクラ」の概要を参照ください。

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