神職家にのみ伝わる法霊明神の由緒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/30 05:40 UTC 版)
「龗神社」の記事における「神職家にのみ伝わる法霊明神の由緒」の解説
龗神社歴代の神職は、曾我兄弟の仇討ちで討ち取られた工藤祐経の縁者にあたる工藤祐道末裔の坂本氏で、昭和期には龗神社の他、長者山新羅神社や三八城神社、櫛引八幡宮などの宮司を兼務していたこともある。 2020年元日現在の宮司で31代目になり、その始まりは平安後期頃からであると言われている。また、坂本家7代目の法霊は法霊明神として龗神社の主祭神の一柱に数えられているが、現神職社家の先祖になるため、代々一家系にて先祖の神を祀っているという事になる。 この神職家には、一般に伝わる法霊の由緒とは全く異なる由緒が口伝で伝わっている。 一般的に伝わり、書籍などにも掲載されている法霊明神の由緒としては、八戸の民に乞われて雨乞祈祷を執り行い、それでも雨が降らなかったため自ら身投げをして雨を降らせ、その感謝を込めて法霊の御霊を法霊明神として祀ったとある。しかし神職家に真実の由緒として伝わっているのは、法霊の怨霊神としての歴史となっている。 法霊は、修験道の修行の旅の終着点として八戸の地を選び、定住して家族を持ち神仏の道をもって地域に根差していたそうである。ある時日照りに悩む八戸の民より雨乞祈祷を願われ、3日間に渡る祈願を行ったにも関わらずその功を得ず降雨は叶わなかった。八戸の人々はひどく落胆し法霊を責め、挙句には殺害してその身柄を沼に投げ捨てたところ、とたんに激しい雷雨に見舞われたため、これを法霊の祟りと心から恐れた八戸の民は、怨霊鎮めのために法霊明神として三崎社に祀り、その子孫によって怨霊を封じるために神職としたそうである。それが現在でも法霊の子孫が神職につく理由となっているそうで、この理由から、龗神社では他家からの神職を一切入れることをしないとされている。 このような経緯から、その後も八戸の民は強い罪悪感や後ろめたさを抱え、法霊明神を八戸にとっての特別な神と崇め祀る事でその怨念から逃れようとしていたものが、時代とともに変遷して八戸の総鎮守神とされ篤い崇敬を集める事になってきたとされている。 この由緒は一般には公開されていないが、龗神社神職の名刺裏に非公開口伝の御由緒として記載されており、名刺交換をした人のみが知り得るものとなっている(2020年6月9日名刺交換により確認)。
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