神は信仰に報いる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 20:23 UTC 版)
パスカルの賭けは次のような選択肢だけを用意している。 慈悲深い神が存在し、各人の信仰の有無に従って罰したり報いたりする。 慈悲深い神は存在しない。 「これは間違ったジレンマという論理的誤謬を犯している」という。 ドーキンスは「神は慈悲深くない、あるいは信仰に報いないという可能性もある。慈悲深い神は定義上、罰したり報いたりする判断基準として各人の信仰を優先し、各人の行動(優しさ、寛大さ、謙譲、正直さ)は二の次である。しかし、神は信仰とは無関係に各人の正直さに報いるかもしれない」と主張した。 Richard Carrier はこの考え方を次のように発展させた。 「 私たちを見ていて、亡くなった人のどの魂を天国に連れて行くかを選んでいる神がいて、その神が本当に道徳的に善良な人だけが天国に住むことを望んでいるとする。神はおそらく、真実を発見するために重要で責任ある努力をした人だけを選ぶと考えられる。それ以外の者は信用できず、認知的にも道徳的にも劣っているか、あるいはその両方を持ち合わせているからだ。彼らはまた、善悪についての真の信念を発見し、それに専念する可能性が低いと考えられる。つまり、もし彼らが正しいことをして間違ったことを避けたいと思う気持ちが大きく、信頼できる関心事を持っているならば、必然的に、善悪を知りたいと思う気持ちが大きく、信頼できる関心事を持っていなければならないということになるのである。この知識は、宇宙の多くの基本的な事実(神がいるかどうかなど)についての知識を必要とするので、そのような人々は、そのようなことについての自分の信念がおそらく正しいことを常に探し出し、試みを行い、確認しようとする重要であり信頼できる関心を持たなければならない。したがって、そのような人々だけが、天国に入るに値するほど道徳的で信頼できる存在でなければならない。 」 これによれば、信心しない正直者に報い、嘘つきの信仰者を罰する神を想定していないことから、上で示した表は不正確ということになる。改良版は次のようになるという[誰?]。 神は信仰する者に報いる神は信仰しない者に報いる神はいない信仰する+∞ (天国) 未定義 結果なし 信仰しない未定義 +∞ (天国) 結果なし これに対して、このような仮説は宗教一般が持つ伝統を無視したものであって、考慮に値しないという主張もある(衆人に訴える論証を参照)。より正確にいえば、このような新たな仮説が真である確率はゼロ(またはごく小さい[疑問点 – ノート])であり、パスカルの期待値計算に影響しない、とする。すると、議論は確率の割り当て方の合理性の問題に及んでいく。
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