社会主義体制崩壊以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 04:24 UTC 版)
「ベオグラード」の記事における「社会主義体制崩壊以降」の解説
「東欧革命」および「ユーゴスラビア内戦」も参照 1991年3月19日、ヴク・ドラシュコヴィッチ(Vuk Drašković)に率いられた、大規模なスロボダン・ミロシェヴィッチ政権に対する抗議行動(en:March 9, 1991 protest)が起こった。各種メディアの推計によると、抗議には10万人から15万人が参加していたと見られている。この中で2人が死亡し、203人が負傷、108人が逮捕され、秩序回復のために戦車が投入された。 1996年11月から1997年2月にかけて、再び大規模な抗議行動(en:1996-1997 protests in Serbia)が行われた。これは地元の選挙における不正の疑惑を引き金とし、ミロシェヴィッチ政権への反対を表明するものであった。抗議行動によって、ゾラン・ジンジッチがベオグラード市長となった。これは、第二次世界大戦以降で初めて、ユーゴスラビア共産主義者同盟やその後継のセルビア社会党出身ではない市長の誕生となった。 1999年にコソボ紛争が激化し、NATOによる空爆が始まると、街は大きな打撃を受けた。セルビア国営放送の建物が攻撃を受け、国営放送本社への攻撃では16人の技術家が死亡した。このほか、ベオグラードでは各省庁の庁舎や複数の病院、ユーゴスラビア・ホテル、ウシュチェ・タワー(Ušće)、アヴァラ・テレビ塔(Avala TV Tower)、中国大使館も攻撃を受けた。 2000年のユーゴスラビア連邦共和国大統領選挙(en)では、ベオグラードは大規模な路上抗議行動の場となった。50万人を超える人々が抗議行動に参加した(警察による推定では80万人、ミシャ・グレニー Misha Glenny によると100万人超)。抗議行動によってミロシェヴィッチ政権は転覆し、後にブルドーザー革命(en)と呼ばれた。
※この「社会主義体制崩壊以降」の解説は、「ベオグラード」の解説の一部です。
「社会主義体制崩壊以降」を含む「ベオグラード」の記事については、「ベオグラード」の概要を参照ください。
- 社会主義体制崩壊以降のページへのリンク