矢作水力の三河進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 21:10 UTC 版)
「中部電力 (1930-1937)」の記事における「矢作水力の三河進出」の解説
岡崎電灯が4つの発電所を新設した矢作川水系は、その他複数の電力会社も発電所を建設した河川であった。名古屋電灯(旧・東海電気)による開発については先に触れたが、次いで日英水電が進出してきた。同社は1916年巴川上流部に巴川発電所(出力1,500 kW、前述の名古屋電灯巴川発電所とは別)を、1920年下流部に白瀬発電所(出力1,119 kW)をそれぞれ完成させる。日英水電は静岡県浜松市などを供給区域とする事業者であり、その発生電力は地元西三河ではなく浜松方面へと送電された。大戦勃発後は浜松でも電力不足が生じており、日英水電は新たな電源を求めて西三河へと進出してきたのであった。 さらに矢作川の上流部や上村川では福澤桃介(当時名古屋電灯社長)のグループが水利権を獲得し、これを開発すべく1919年3月に矢作水力が発足した。同社は1920年12月に下村発電所(出力4,200 kW)を完成させたのを皮切りに、1927年(昭和2年)にかけての短期間で6か所の水力発電所を建設していく。そしてその発生電力を名古屋方面へと送電しつつ、電力不足著しい西三河地方への参入を図って工業用電力供給を出願した。電力供給区域の認可は出願よりも小区域となったが、1921年1月岡崎市とその周辺ならびに宝飯郡蒲郡町・三谷町、1925年(大正14年)5月幡豆郡西尾町での供給を認可された。 矢作水力は、岡崎に紡績工場を新設すべく服部商店(現・興和)の服部兼三郎や地元の千賀千太郎らによって岡崎紡績が1919年3月に設立された際、安価な電力を供給するとして起業に参加していた。工場建設途上で岡崎紡績は行き詰るも、日清紡績がこれを合併、工場建設を引き継ぎ1921年11月までに2万錘の紡績機を持つ岡崎工場を完成させた(後の日清紡績針崎工場)。矢作水力から日清紡績岡崎工場への供給高は当初600kWで、同社にとって開業初期からの大口需要家の一つとなった。その後は日清紡績以外にも西三河では岡崎・西尾・蒲郡の諸工場を需要家に加え、碧海郡刈谷町の豊田紡績(現・トヨタ紡織)刈谷工場にも供給した。 先に触れたように、岡崎電灯も矢作水力から電力を購入する立場にあった。受電開始は1921年4月からで、最大2,120kWの契約高となったが1926年(大正15年)5月より一旦停止。同年11月から500kWで再開され、以後1929年(昭和4年)の契約期間満了まで受電が続いた。
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