皇帝礼拝とキリスト教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 00:26 UTC 版)
「初期キリスト教」の記事における「皇帝礼拝とキリスト教」の解説
キリスト教は偶像と皇帝への礼拝、および都市の公共祭祀を拒否したため、反感をまねき、また一部の迫害の口実ともなった。しかし、パウロは帝国と皇帝への反抗の意思がないことを繰り返し述べていたし、そうした従順な姿勢はユダヤ教でも同様であった。 内面性の強いキリスト教の性格はローマ帝国で行われた皇帝礼拝と相容れざるもので、帝国は公共祭祀である皇帝礼拝を受け入れないキリスト教徒を、公共の宗教からの逸脱者、国家離反者として迫害したという説が歴史学者の間で長く論じられてきた。迫害と皇帝礼拝は因果づけて考えられてきたために、古代教会が日曜日を「主の日」として制定したことも、皇帝礼拝に対抗するキリスト教徒の信仰告白であったという見方もある。しかし、そもそも皇帝礼拝という名で括られている祭儀は多様であり、内容においては極めて政治的な意味を持つものから宗教性の高いものまで、範囲においても都市国家規模から属州単位のもの、担い手も一様でなく、それらを統一的に「皇帝礼拝」という一語で把握することには飛躍が伴う。#ユダヤ教の反乱とユダヤ・キリスト両教徒への迫害で述べたように、ドミティアヌスによる迫害とその原因としての皇帝礼拝拒否というこれまでの通説は否定されている。 「最後の大迫害」を行ったディオクレティアヌスは民衆に皇帝とローマの神々を礼拝することを義務づけたが、当時は軍内部にも少なからずキリスト教徒がいたため、当初はローマの神々を礼拝すればキリスト教の信仰を保ってもよいとするなど融和的な政策をとっていた。しかしキリスト教徒の兵士が軍から逃亡するなどの反逆行為が多発したため、キリスト教に警戒感を抱くようになった。
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