白楽町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/30 06:43 UTC 版)
倉敷中心市街地の南部に位置する。 北部の一部は天正年間に岡山城主・宇喜多氏が干潟を干拓してできた土地で窪屋郡白楽市村(ばくろいちそん)と称していたが、南部の大部分は江戸時代初期の開発による新田地帯である。慶長5年、徳川幕府領となり、元和元年に岡山藩主池田氏ぼ領分となる。ついで寛文12年、鴨方藩立藩により鴨方池田氏の領分に変わる。また、これまでの間に宇喜多氏開墾の土地の南部に新たに新田を開発している。南部の新しい土地は西側を西中新田村、東側を東中新田村と称していたが、貞享2年に2村を合わせて白楽市新田村(ばくろいちしんでんそん)とする。幕末の石高は、白楽市村は938石1斗7升であった(ちなみに白楽市新田村は、816石5斗5升)。 明治になり、1880年(明治13年)に白楽市新田村が西中新田村と改称し、1889年(明治22年)6月1日に白楽市村・西中新田村・笹沖村・吉岡村が合併し、葦高村を新設。1901年(明治34年)には葦高村と大市村が合併し大高村、さらに1927年(昭和2年)に倉敷町・万寿村・大高村が合併し新しい倉敷町を新設、翌年には倉敷市(旧)となる。その際に大字となっていた白楽市を白楽町に改称した(「市」の字が重複し、語呂が悪いため)。その後、1967年(昭和42年)に新しい倉敷市となり、現在に至る。 地名の由来は、新田開発後、当地で牛馬の取引をする戎市が開かれていた。そのため各地から博労(白楽)が集まったため白楽市という村名になった。その名残として、「市場」という小字も残る。 なお、西中新田は現在は大高のエリアとなっている。
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