白村江の敗戦とは? わかりやすく解説

白村江の敗戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:30 UTC 版)

壬申の乱」の記事における「白村江の敗戦」の解説

天智天皇即位以前663年に、百済復興企図して朝鮮半島出兵し、新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争大失敗終わったこのため天智天皇は、国防施設玄界灘瀬戸内海沿岸に築くとともに百済遺民東国移住させ、都を奈良盆地飛鳥から琵琶湖南端近江宮移した。しかしこれらの動きは、豪族民衆新たな負担与えることとなり、大きな不満を生んだ考えられている。近江宮遷都の際には火災多発しており、遷都対す豪族民衆の不満の現れだとされている。また白村江の敗戦後、国内政治改革急進的に行われ唐風変えようとする天智天皇側と、それに抵抗する守旧派との対立生まれたとの説もある。これは白村江の敗戦の後、天智天皇在位中に数次遣唐使派遣があるが、大海人皇子天武天皇として即位して以降大宝律令制定された後の文武天皇の世である702年まで遣唐使が行われていないことから推察される。

※この「白村江の敗戦」の解説は、「壬申の乱」の解説の一部です。
「白村江の敗戦」を含む「壬申の乱」の記事については、「壬申の乱」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「白村江の敗戦」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「白村江の敗戦」の関連用語

白村江の敗戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



白村江の敗戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの壬申の乱 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS