町年寄の苗字帯刀と熨斗目着用
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「町年寄」の記事における「町年寄の苗字帯刀と熨斗目着用」の解説
町年寄の身分は町人である。しかし、他の特権町人と同様、町人の最上位にあって武士と同等の権威を与えられていたため、代々帯刀や熨斗目の着用は許されてきた。他の町人達が帯刀を禁止される中で町年寄は供の若党にも刀を差すことが許されたと『重宝録』にも記されている。天和3年(1683年)2月、これらの特権は剥奪され、熨斗目の着用も同時期に禁止になったと思われる。 町年寄の帯刀禁止は、寛政2年(1790年)に樽屋与左衛門が、札差仕法改正の事務に従事する際、猿屋町会所勤務中の帯刀が許可されるまで、100年間続くこととなる。奈良屋市右衛門(奈良屋8代目)も猿屋町会所勤務中の帯刀を許された他、文政7年(1824年)12月に「御用向品々取扱い出精骨折候」という理由で町年寄3名とも一代限りの帯刀が許可された。ただし、この時の許可は評定所や町奉行役宅への出頭、地渡し、地受取りのための廻勤のみに限定され、町奉行所玄関内への刀持込みや登城・他行一般の際の帯刀は許可されていない。 また、苗字に関しては、樽屋と奈良屋は屋号であって苗字とは認められていない。喜多村は、享保18年(1733年)の町奉行所の書上によれば、町奉行支配の者として苗字を許されていたとある。ただし、町奉行支配の町人の中で、他にも苗字を使用している者は多いが、「何れも自分と内証にて唱え」ているものとして、公式には認められていない。樽屋は12代目与左衛門が札差仕法改正に尽力したことにより、樽屋は以後「樽」という苗字を称することを許可された。奈良屋は、文政12年(1829年)10月に苗字を名乗れるよう願書を提出したが認められず、後に10代目奈良屋市右衛門が天保5年(1834年)3月に上申書を提出、町奉行も老中に上申したため、同年12月に「館(たち)」という姓を名乗ることが許された。 元文2年(1737年)9月、将軍宮参りに際し、町年寄の熨斗目白帷子の着用許可願を町奉行から老中に提出するが、これは不許可となる。安永3年(1774年)正月に銀座年寄が、天明3年(1783年)12月に銀座常是大黒長左衛門が熨斗目の着用を許されたため、町年寄たちも許可を得るために何度も請願し、天明4年(1784年)の12月27日にようやく許可が下りることとなった。
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