甲越和与とは? わかりやすく解説

甲越同盟

(甲越和与 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 04:25 UTC 版)

甲越同盟(こうえつどうめい)は、天正7年(1579年)に甲斐戦国大名武田勝頼越後の戦国大名上杉景勝との間で成立した同盟。3年後の天正10年(1582年)に起こった甲州征伐まで軍事同盟として機能し、戦国時代後期の甲斐や越後、後北条氏相模など東国における諸勢力の関係に影響を及ぼした。


  1. ^ 丸島(2006)、p.123
  2. ^ 丸島(2006)、pp.123 - 124
  3. ^ 丸島(2006)、p.123
  4. ^ 丸島(2006)、p.125
  5. ^ 丸島(2006)、p.125
  6. ^ 8月19日付上杉景勝宛武田勝頼起請文『覚上公御書案』
  7. ^ 『上杉家文書』には勝頼の誓詞のみが現存している。
  8. ^ 片桐昭彦「上杉景勝の権力確立と印判状」(初出:『新潟史学』45号、2000年/所収:『戦国期発給文書の研究』高志書院、2005年)


「甲越同盟」の続きの解説一覧

甲越和与

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:06 UTC 版)

武田信玄」の記事における「甲越和与」の解説

この間織田信長足利義昭奉じて上洛していた。信玄信長室町幕府第15代将軍就いた足利義昭通じて越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試み永禄12年8月1569年)には上杉氏との和睦成立した。 さらに信玄越相同盟対抗するため、常陸国佐竹氏下総国簗田氏など北・東関東の反北条勢力との同盟結んで後北条領国圧力加え永禄12年10月1569年)には小田原城一時包囲撤退の際に、三増峠の戦い北条勢を撃退した(これにより永禄12年1569年)の第三次駿河侵攻にて、後北条氏戦力北条綱重の守る駿河蒲原城回せず、これを落とすことに成功した)。こうした対応策から後北条氏上杉武田との関係回復方針転じた永禄12年1569年)末、信玄は再び駿河侵攻行い駿府掌握したまた、永禄年間下野宇都宮氏家臣益子勝宗親交深めていた。勝宗が信玄による西上野侵攻呼応して出兵し、軍功上げると信玄は勝宗に感状贈っている。

※この「甲越和与」の解説は、「武田信玄」の解説の一部です。
「甲越和与」を含む「武田信玄」の記事については、「武田信玄」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「甲越和与」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「甲越和与」の関連用語

甲越和与のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



甲越和与のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの甲越同盟 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの武田信玄 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS