甲越同盟
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甲越同盟(こうえつどうめい)は、天正7年(1579年)に甲斐の戦国大名・武田勝頼と越後の戦国大名・上杉景勝との間で成立した同盟。越甲同盟(えつこうどうめい)とも呼ばれる。
注釈
- ^ 謙信は過去に越相同盟を北条氏政によって一方的に破棄されており、これを根に持っていたとされる。
出典
- ^ a b 丸島(2006)、p.123
- ^ 丸島(2006)、pp.123 - 124
- ^ a b 丸島(2006)、p.125
- ^ 丸島(2006)、p.129 - 130
- ^ a b c 丸島(2006)、p.131
- ^ 6月7日付上条政繁ほか越後揚北衆宛跡部勝資書状『杉原文書』
- ^ 6月12日付上杉景勝宛武田信豊書状『上杉家文書』
- ^ 6月24日付斎藤朝信宛武田勝頼書状『斎藤文書』
- ^ 8月19日付上杉景勝宛武田勝頼起請文『覚上公御書案』
- ^ 『上杉家文書』には勝頼の誓詞のみが現存している。
- ^ 長篠合戦と武田勝頼 平山優 吉川弘文館 158頁~159頁
- ^ 片桐昭彦「上杉景勝の権力確立と印判状」(初出:『新潟史学』45号、2000年/所収:『戦国期発給文書の研究』高志書院、2005年)
- ^ なお、戦国期の同盟は「甲越同盟」のように同盟国間の令制国名の略称をもって呼称されることが多いが、武田・佐竹氏間の同盟は文書上においては「甲佐」と記されており、これは佐竹氏をはじめ関東の諸氏族がいずれも一国規模を支配する地域勢力でなく、佐竹氏も常陸国の大半を掌握できていなかったためとしている(丸島 2011)。甲佐同盟については丸島和洋「武田氏の対佐竹氏外交と取次」『戦国大名武田氏の権力構造』思文閣出版、2011年。
- ^ 長篠合戦と武田勝頼 平山優 吉川弘文館 277頁~279頁
- ^ 日本にかくれなき弓取 武田勝頼 笹本正治 ミネルヴァ書房 162頁~163頁
甲越和与
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この間、織田信長は足利義昭を奉じて上洛していた。信玄は信長と室町幕府の第15代将軍に就いた足利義昭を通じて越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試み、永禄12年8月(1569年)には上杉氏との和睦が成立した。 さらに信玄は越相同盟に対抗するため、常陸国佐竹氏や下総国簗田氏など北・東関東の反北条勢力との同盟を結んで後北条領国へ圧力を加え、永禄12年10月(1569年)には小田原城を一時包囲。撤退の際に、三増峠の戦いで北条勢を撃退した(これにより永禄12年(1569年)の第三次駿河侵攻にて、後北条氏は戦力を北条綱重の守る駿河の蒲原城に回せず、これを落とすことに成功した)。こうした対応策から後北条氏は上杉・武田との関係回復に方針を転じた。 永禄12年(1569年)末、信玄は再び駿河侵攻を行い、駿府を掌握した。また、永禄年間に下野宇都宮氏の家臣益子勝宗と親交を深めていた。勝宗が信玄による西上野侵攻に呼応して出兵し、軍功を上げると信玄は勝宗に感状を贈っている。
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