生保による成長持続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 08:40 UTC 版)
ベトナム軍需と西欧軍需だけでは、長い冷戦時代も韓国の経済成長が続いたことを説明できない。 戦間期に韓国の生命保険制度は日本の影響を受けて発展したが、戦後に米韓で制度の主導権が争われた。 1946年に韓国初の生保会社としてハンファ生命が誕生した。米国系であり、現在は軍需産業のハンファグループに属する。 1957年サムスン生命が誕生した。漢江の奇跡より早く、産業資本の自己金融が興っていたのである。 1962年に朴政権が立憲するやいなや生保改革に着手した。このとき9社だけあった生保会社を国民貯蓄機関として選定し、6社へ統合した。1968年、ユーロダラー市場の活況を受けて初めて外資系生命保険会社の参入を認めた。 1976年8月にポプラ事件が起こり、その情勢で10月にコリアゲートが露見するほどに米韓の癒着は進んだ。この同年、逓信部(現情報通信部)の国民生命保険事業と郵便年金事業を農協に移転した。翌1977年には韓国初の原発が始動した。この同年、韓国生命保険協会(Korea Life Insurance Association)年報によると、韓国生保における個人保険の保有高前年比伸び率は空前の88.0%を記録した。1978年で82.7%、1980年は89.2%にも達した。朴正煕が射殺された1979年は団体保険で86.6%であった。このころ外債の累積が世論に叩かれ、そこで国内資本の充実を目的に保有高は増加したのだと日韓当局が説明している。 1986年に韓米保険協議がおこなわれた。盧泰愚政権の1987年から米国系保険会社の参入を認めている。翌年には年金保険が整備され、余計にアメリカ資本の関心を引いた。1987年4月23日にLINA生命、1987年5月にアリコ生命、1988年7月にアフラック生命が参入した。その後米韓合弁の生保会社が登場した。 1995年朝鮮半島エネルギー開発機構の設立によって韓国資本が成長産業以外にも振り向けられることになった。翌年のアジア通貨危機をものともせず、韓国の保険制度は大幅な規制緩和を遂げた。
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