源頼朝無関係説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 04:37 UTC 版)
野木宮合戦には源頼朝の弟で後の平家討伐で重要な役割を果たす源範頼が初めて登場するが、この戦いでは門葉かつ頼朝の弟でありながら、一介の将としての参加でかつ兄の頼朝から出陣の命を受けた形跡すらない。また、京都もしくは遠江で育ったとみられる範頼がいつ頼朝の麾下に参じたかに関する記録も存在しない。 これについて、近年になって菱沼一憲はこの当時小山氏・下河辺氏・八田氏らが擁していたのは頼朝ではなく範頼で、野木宮合戦は源範頼と志田義広による北関東における勢力拡大を巡る私戦に過ぎず、鎌倉の頼朝はこの戦いとは無関係であったとする説を提示した(なお、菱沼は野木宮合戦は治承5年(1181年)説を取る)。菱沼はその理由として範頼の養父である藤原範季は下野国の受領を務めており範頼が根拠地とする基盤が存在したこと、小山朝政の父である政光が在京しており頼朝の挙兵に直ちに加われる環境になかったこと(頼朝の下には弟の結城朝光らを派遣している)、一方志田義広が鎌倉を攻める意思を持っていれば小山方面に進むのは遠回りであること、頼朝から義広討伐を命じられたとされる関政平が途中で志田側についた不自然さなどをあげ、義広の標的は最初から小山であり、小山朝政も志田義広に対抗できる源氏の貴種として鎌倉の頼朝ではなく、下野に下っていた弟の範頼を擁した結果、志田義広と源範頼の間で軍事衝突に至ったとする。その後、寿永元年(1182年)までに範頼・小山氏らはいずれも頼朝勢力と合流しているが、後に範頼は誅殺された(なお、菱沼は範頼が誅殺された原因を、頼朝が曾我兄弟の仇討ち直後に発生した常陸国内の混乱から、野木宮合戦を通じて同国に影響力を持った範頼の関与を疑ったとする)。ところが、小山氏にとって当初は範頼を擁していた事実や私戦としての要素は、裏を返せば頼朝の幕府創設への貢献を訴える点では弱点になる。そこで『吾妻鏡』編纂時に小山氏が頼朝のために志田義広を討伐したという主張を載せた史料を提示して小山氏が範頼を擁していた事実を隠し、幕府側はその史料を元に野木宮合戦が頼朝による北関東平定の話へと書き換えたとしている。 菱沼はさらに、この合戦の本質は下河辺荘水系などをめぐる利権争いに周辺豪族がそれぞれ連帯しておきた争いで、志田義広らに鎌倉を攻める意図はなかったと延べている。また野木宮は一連の合戦の北の端に起きた戦闘の一つに過ぎず、主要な戦地は下河辺荘一円にあったとしている。
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