源義忠暗殺事件
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源義忠暗殺事件(みなもとのよしただあんさつじけん)とは、狭義では天仁2年(1109年)2月3日に源義忠が襲われて2日後に死去した事件であり、広義ではその事件から源義綱父子の追捕と義綱の佐渡への配流をいう。
- ^ 元木泰雄『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』中公新書、2011年
- ^ 佐々木紀一「源義忠の暗殺と源義光」『山形県立米沢女子短期大学紀要』第45巻、山形県立米沢女子短期大学、2009年12月、19-29頁、CRID 1050001202927787264、ISSN 02880725。
- ^ 志田諄一「武田義清・清光をめぐって」(初出:『武田氏研究』九、1992年。/所収:西川広平 編著 『甲斐源氏一族』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二二巻〉、2021年。ISBN 978-4-86403-398-5。2021年、P47-49.
- ^ 志田諄一「武田義清・清光をめぐって」(初出:『武田氏研究』九、1992年。/所収:西川広平 編著 『甲斐源氏一族』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二二巻〉、2021年。ISBN 978-4-86403-398-5。2021年、P51.
- 1 源義忠暗殺事件とは
- 2 源義忠暗殺事件の概要
- 3 備考
源義忠暗殺事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/21 01:51 UTC 版)
天仁2年(1109年)、季方は義光から義明の刀を持ってくるように言われ、密かに義明の刀を義光に渡した。その直後の2月3日、河内源氏の棟梁であり、源義家の四男・源義忠が何者かに襲われ、2日後に亡くなるという事件が発生した(源義忠暗殺事件)。その際、義忠の暗殺現場に義明の刀が残されていたので、朝廷は犯人は義綱・義明親子が源氏の棟梁の座を義忠から奪おうとし、季方に襲撃を行わせたと断定した。その為、義綱はこれに怒り、嫡男・義弘を始めとする5人の子達もこれに怒り、抗議の意を込めて父子そろって義光の所領である近江国甲賀郡の甲賀山(鹿深山)へ立て籠もるという行動をとった。しかし、義明は病の為に皆と行動を共にできず、季方の館に籠ることとした。白河院は棟梁を継いだばかりの義忠の甥・源為義(父は義家の長男源義親)に義綱父子を追討するように命じ、義光も為義の後援を行った結果、義綱は最終的に投降したが立て籠っていた5人の子達は全員自害した。 季方は自らの屋敷に籠る義明と共に屋敷の守りを固めるが、白河院の命を受けた美濃源氏で検非違使判官の源重時が攻め寄せてきた。重時はこの事件の発生当初、最初に義忠暗殺犯として逮捕された源重実の弟である。義明・季方軍は重時軍に二百余人の死傷者を出させるほどの奮戦をしたが最後は二人とも自害して果てた。 季方はかつての主人であり、義忠暗殺事件の真犯人である義光によって利用され、最終的には滅ぼされた。
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