消滅後のアルル王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 17:18 UTC 版)
1378年、神聖ローマ帝国の構成国家としてのアルル王国(ブルグント王国)は消滅した。しかし神聖ローマ帝国がフランスに譲ったのは支配権のみで、王位までは譲らなかった。神聖ローマ皇帝=「アルル王」の許可で、フランス王太子=ドーフィネの伯がアルル王国領の支配を摂政として永久に任されているという建前だった。「アルル王」の称号は、神聖ローマ帝国が解体する1806年まで神聖ローマ皇帝が名乗り続けた。またトリーア大司教も、1356年に金印勅書で得た選帝侯としての宮中官位である「ガリア=ブルグント大書記官長」を名乗り続けた。ガリアとは古代ローマ帝国時代におけるフランスの呼称であり、帝国がフランスの一部を名目的にしろ支配しているということを主張する意味合いがあった。なおアルル王国消滅時にフランス王領とならなかった領域も、最終的にはスイスを除いて全てフランス領となった。1246年にアンジュー家のものとなっていたプロヴァンス伯位は1481年にルイ11世慎重王が相続した。ブルゴーニュ伯領は1678年に併合された。ヴネサン伯領(教皇領)はフランス革命の中で1791年に併合された。一方、サヴォイア伯国はイタリアへ進出してサヴォイア公国、サルデーニャ王国へと成長し、ついにはイタリア全土を統一してイタリア王国を成立させた。サルデーニャ王国はフランスにイタリア王国を承認させるため、王室ゆかりの地であるサヴォイア公国領を割譲した。フランス革命とナポレオンによってフランス王国も神聖ローマ帝国もとうに滅んだ1860年のことである。
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