海軍へ入隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 15:33 UTC 版)
「ロバート・フィッツロイ」の記事における「海軍へ入隊」の解説
4歳からノーサンプトンシャーのフィッツロイ家の邸宅で育てられた。1818年2月に12歳でポーツマスの王立海軍学校に入り、翌年には英国海軍に入隊した。14歳で志願してオーウェン・グレンダウワー号に乗り込んだ。1820年に南アフリカへ向かい、1822年1月に帰国した。この航海中にミッドシップマンに昇進した。その後ハインド号に乗艦し、1824年9月に史上初めて「満点」で試験を通過し、レフテナントに昇進した。 テティス号に勤めたあと、フラッグ・レフテナントとしてロバート・オトウェイ少将指揮下のガンジス号に乗艦した。ちょうどそのとき、フィリップ・パーカー・キング艦長の総指揮の元、プリングル・ストークス艦長のビーグル号はティエラ・デル・フエゴの測量を行っていた。プリングル・ストークスはひどい鬱で、拳銃自殺した。船はスカイリングが指揮を引き継ぎリオデジャネイロに入港した。1828年12月、そこでオトウェイはフィッツロイを臨時の艦長に任命した。1830年11月に船は帰還し、フィッツロイは測量士、艦長としての名声を得た。 調査の間、部下の数人が陸上でキャンプをしているときにフエゴ島民がボートを持ち去った。フィッツロイはこれを追跡し、いさかいのあと犯人の家族が人質として船に連れてこられた。2人の男と、男子、女子を1人ずつ抱えることになった。彼らをうまく岸へ戻すことができなかったので、フィッツロイは人質を「文明化」することに決めた。宣教師として彼らを帰す前に、「英語と…キリスト教の明らかな真実と…そしてふつうの道具の使い方」を教えようと考えた。彼らは洗礼名を与えられた。女子はフエジア・バスケット、男子はジェミー・ボタン、大人の男の1人はヨーク・ミンスターと名付けられた。もう1人のボート・メモリーはイングランドに戻り、天然痘のワクチンを打たれた後で死亡した。彼らは宣教師リチャード・マシューズの関心を引き、1831年夏には国王に謁見するのに十分なほど「文明化」された。
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