汴京とは? わかりやすく解説

開封府

(汴京 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 16:12 UTC 版)

開封府(かいほうふ)は、中国にかつて存在した五代十国時代から中華民国の初年にかけて、現在の河南省開封市一帯に設置された。


  1. ^ 旧五代史』梁書太祖紀三
  2. ^ 『旧五代史』郡県志
  3. ^ 『旧五代史』唐書荘宗紀四
  4. ^ 『旧五代史』晋書高祖紀
  5. ^ 宋史』地理志一
  6. ^ 金史』地理志中
  7. ^ 『金史』宣宗紀上
  8. ^ 元史』地理志二
  9. ^ 明史』地理志三
  10. ^ 清史稿』地理志九


「開封府」の続きの解説一覧

汴京

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 01:03 UTC 版)

漕運」の記事における「汴京」の解説

五代王朝及び北宋が汴河と大運河接点に近い汴京(開封)に首都置いた理由は、この教訓学んで食糧租税搬入便に優れた地点求めたことにあった北宋に入ると、転運使中央省庁1つである「転運司」に格上げされとともに首都への物資搬入加えて、北の遼との国境、西の西夏との国境に近い最前線への物資搬入役目を担うようになった漕運実施安全確保当時北宋軍隊重要な役割1つとされ、更に船の渋滞避けるために水運並行して河川運河要所から汴京に陸路輸送する汴綱と呼ばれる綱運の一種が行われた。軍隊はそのために動員され人夫たちも指揮し時期によっては直接投入された。 汴京には、規定により国初年間400万石真宗期に600万石輸送が行われることになっていたが、最盛期には800万石まで輸送が行われた。だが、冬になると汴京の水位下がって漕運が困難となること、役人不正などによって漕運円滑妨げられることがあった。このため商人空船利用した塩などの輸送などの副業認めて漕運への参加募り1102年には蔡京がこれを進めて商人船舶利用した直達法の導入行った。だが、新法・旧法の争い巻き込まれる形で改革失敗終わっている。 靖康の変によって中国は再び金と南宋分断された。南宋では新法否定的に扱われた中で直達法への移行例外的に推進された。だが、国土分断によって漕運は再び衰退することとなった

※この「汴京」の解説は、「漕運」の解説の一部です。
「汴京」を含む「漕運」の記事については、「漕運」の概要を参照ください。

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