江戸期の妙顕寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:18 UTC 版)
「妙顕寺 (戸田市)」の記事における「江戸期の妙顕寺」の解説
初代将軍徳川家康の側室で熱心な法華信者であったお万の方(養珠院)と妙顕寺とは縁が深く、彼女の子を藩祖とする紀伊徳川家や水戸徳川家の関係者からしばしば寄進を受けた形跡を確認することができる。御朱印は18石を下付されていた。妙顕寺は『江戸名所図会』で名所として紹介されたばかりか、浅草や深川など江戸市中において釈迦像や祖師像などの寺宝を度々出開帳に出したこともあって多くの参詣者を集め、上述した縁起とあいまって、「子安霊場」として広く江戸市民に認識されることとなった。御三卿清水徳川家家臣の村尾正靖(嘉陵)は、孫娘が無事に生まれた際に参詣(御礼参り)したときのことを記した「新曽妙顕寺詣の記」と題する紀行文を遺しており、それは後に、村尾が遺した他の紀行文とともに『江戸近郊道しるべ(嘉陵紀行)』に集成されている。
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