永井隆の原爆論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 08:49 UTC 版)
広島は、三角州(デルタ地帯)でおおむね平坦な土地である。広島での原子爆弾は市の中心部に落とされたことから、その被害は市街地全域に幅広く及んだ。それに対して、長崎での原子爆弾は、浦上という街外れの山あいの集落に落とされたものである。浦上川の両岸にわずかな平地があり、川と並行するように急峻な山がそびえ立つ。この山間が回廊(回廊地帯)のような役割を果たして、狭い地域を爆風が吹き抜けた。複雑な地形は、長崎の原爆被害に同じ市内であっても場所によって濃淡をつけた。例えば長崎駅では、爆風で窓ガラスの破損などがあったものの、その他の被害は割合に軽微であった。長崎県庁でも被害は少なかった。被害の程度に差があることや市街地の被害が比較的大きくなかったことは、その後の原爆についての考え方や態度で長崎市民の間に、温度差や時には対立をも生じることになった。 「原爆は長崎ではなく浦上に落ちた」「お諏訪さん(諏訪神社)が原爆から守ってくれた」などと市民の間で公然と言われるような被爆直後の状況に、カトリック信者である永井は直面することになる。 高橋真司は、永井の考えを次のように分類する。 永井は長崎原爆をどう見るか - 「神の摂理(大きな御摂理)」である。 永井は原爆死没者をどう見るか - 「汚れなき小羊の燔祭」である。 永井自身を含めて生き残った被爆者はどうすればいいか - 「神が与えた試練であり、神に感謝」すべき。 ほか、永井は原爆死した妻を原子雲のうえで昇天させた絵も書いた。また、永井は原子爆弾という「新しい動力」について「明るい希望」として、原子爆弾を生み出した科学技術を神に与えられたものとして賞賛している。
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