気球操縦士長
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1861年6月11日の夜、ローはエイブラハム・リンカーン大統領と会い、ホワイトハウスの上空500フィート (152.4 m) ほどから電報を送るエンタープライズ号でのデモンストレーションを提案した。実際に送られた電文は次の通りだった。 気球エンタープライズ ワシントンD.C.、1861年6月16日 アメリカ合衆国大統領に: この観測地点からは直径50マイル (80 km) 近い範囲が見渡せる。町を野営地が取り囲んでいる様は素晴らしい眺めである。この空中基地から初めての電報を貴方に送ることができるのは喜びであり、この国のために気球の科学の有用性を示す機会を与えてくれた貴方に感謝するものである。タデウス・ロー ローは他に3組の傑出した気球乗り、すなわちジョン・ワイズ、ジョン・ラマウンテンおよびエズラとジェイムズのアレン兄弟とその地位を争っていた。ワイズとラマウンテンは以前からローを批判する者だったが、そう簡単には任務を得ることができないでいた。 ローの最初の出撃はアービン・マクドウェル将軍と北東バージニア軍とであり、第一次ブルランの戦いのときに行われた。ローは敵前線の背後に不時着するという不運があったもののその功績は印象を残した。幸いローは敵に発見される前に第31ニューヨーク志願連隊の兵士に発見された。しかし、着地の時に踝を捻っており兵士達の助け無くしては歩けなかった。彼等はコーコラン砦に戻りローの身分を報告した。最終的に妻のレオンティンが老婆に身を窶して救出に現れ、持ってきた四輪荷馬車とテント地のカバーを使ってローとその装置を安全に取り戻すことができた。 ローが気球司令部を創り、ローを気球操縦士長とする面倒を見るようウィンフィールド・スコット将軍に命じたリンカーン大統領の所に、ローの功績の話が届いた。それはローが4基の気球を(最終的に7基)造り、移動式水素ガス発生器を備えるほぼ4ヶ月前のことだった。同時にローは、軍用気球の操作法を指導することになる1隊の者を集めた。新しく結成された北軍気球司令部は民間契約の組織のままであり、軍隊での任命を受けることが無かったが、これは部隊の誰でもスパイとして捕まれば、即刻処刑される危険を秘めたものだった。
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