ジョン・ラマウンテン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/18 16:03 UTC 版)
「北軍気球司令部」の記事における「ジョン・ラマウンテン」の解説
ジョン・ラマウンテンは1830年に生まれ、気球乗りの分野では大変な評判を生んでいた。一度はワイズと組んで大西洋横断飛行の計画を助けた。この試みは惨めな失敗に終わり、その気球(アトランティック号)は壊れ、共同事業も終わった。ラマウンテンは気球の所有者になった。 ラマウンテンの貢献と成功は最小のものである。しかし彼はモンロー砦でベンジャミン・バトラー少将の注意を引き付けた。ラマウンテンはみすぼらしくなったアトランティック号で暫くはモンロー砦で活動し、実際に空中から戦時の観察を効果的に行ったことでは初めての者とされている。気球サラトガ号も手に入れたが、間もなく暴風で失われた。ラマウンテンは自由飛行による気球偵察を提唱したが、ローは囚われ形、すなわち繋留された飛行方式を使い、常に地上の仲間が引き下ろせるように索で繋がれていた。 ワイズとラマウンテンは長い間ロー教授のことを悪く言っていたが、ラマウンテンはローに対して信用を落とすような辛辣な運動を続け、気球操縦士長の職から追い落とそうとした。世論という競技場を使ってローに悪態をついた。しかしバトラー将軍がモンロー砦指揮官から解任されると、ラマウンテンはローの指揮下にある気球司令部で任務を与えられた。それでもローに対する世論を傷つけることを継続し、また司令部の他の隊員の中にも悪意を生んだ。ローはジョージ・マクレラン少将に正式な苦情を申し入れ、1862年2月、ラマウンテンは軍務を解かれた。
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