正史における張角
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 21:21 UTC 版)
自ら大賢良師と称し、太平道の信者を集め養っていた。信者たちに、平伏して罪を懺悔させたり、符水を飲ませることで病を癒したため、人々の信奉を集めた。10余年のうちに、数十万人の信者を8つの州で獲得するに至ったため、信者を36の「方」に属せしめ、それぞれの方に渠帥を置き管轄させた。表面的には善道をもって天下を教化していたが、内部では結託して黄天の世を作ろうと画策していた。やがて、 蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉 という標語を掲げ、洛陽の城門や州郡の役所に白亜で「甲子」の字を書いて造反をアピールした。 光和7年(184年)、人身御供を捧げて天を祭り、一斉に蜂起して州郡の役所を焼き払い、長官を殺害し集落を略奪した。張角は天公将軍と称した。しかし同年夏以降は、後漢朝廷の皇甫嵩や朱儁らの活躍もあり、急速に乱が治まっていった(詳細は黄巾の乱を参照)。張角は広宗に拠って抵抗したが、10月に広宗は陥落した。この時、張角が既に病死していたため、討伐軍は棺を暴いて遺体を刑罰に処し、斬首した首を洛陽で木に吊るした。 この後も黄巾を名乗る蜂起は各地で続いた。さらに、北宮伯玉・韓遂・張燕・張脩など黄巾以外の反乱軍も数多く蜂起し、もはや後漢朝廷の手に負えなくなった。この事件以降、後漢の権威は地に堕ちた。 やがて、黄巾兵を傘下に組み入れた曹操(後の魏)に、孫権(後の呉)・劉備(後の蜀漢)を加えた三者が鼎立する「三国時代」が到来することとなる。
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