欧州各国で柔道指導
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最初に安倍が赴いたフランス南部の街・トゥールーズの修道館倶楽部道場ではラッセル三兄弟が指導をしており、その三男が小泉軍治の指導を受けた関係で講道館柔道が行われていたが、それでも技は「掛け」に重点が置かれていて「崩し」と「作り」が疎かになっていたので、安部はここで柔道技法の正しい理論を叩き込んだ。また、当時の欧州では審判もそれぞれの国の言語でやっていたが、安部は「日本生まれの文化である柔道は、日本語で行うのが当然」との信念から、正しい技術の伝承と同時に正しい日本語の使用を徹底した。2年間のフランス柔道指導後はベルギーのナショナル連盟からの熱心な勧誘を受け、安部は1953年12月よりベルギー柔道協会の技術理事として現場指導を一手に任された。当初はベルギーでも川石式柔道が根付いていたが、安部は指導計画を作成して体制を整え、技の理屈を精力的に指導し、同地では1年も経たないうちに講道館柔道が主流となっていったという。その後安部は1955年より欧州柔道連盟で技術顧問を、1960年1月よりベルギー体育スポーツ協会所属のナショナルコーチを任ぜられ、ブリュッセルを拠点にしつつも請われるまま欧州各国で柔道講習会を開催するなどした。 同じく欧州で柔道指導を行っていた平野時男や、当時国際柔道連盟のテクニカル顧問であった川村禎三らの協力の元、欧州各国では「崩し」「作り」「掛け」という講道館理論を根本から指導し、技名も日本語に統一。またバラバラだった審判技術も、前述の通り各国の言語で審判を行っていた状況の改善から着手した。欧州柔道が現在のように日本を始め世界各国と対等に試合や審判ができるレベルを確立するまでには実に10年以上の歳月を要しており、これを成し得たのは安部の理路整然とした丁寧な理論解説と情熱的な指導、そして何より欧州の柔道家達を魅了したその人柄に他ならないが、当の安部は「(欧州各国は)今と違い日本に学ぼうという姿勢があったため、反発もなく素直に受け入れられた」「道場で自然に日本語が出てくるようになったのは各国柔道連盟の努力の結果」と謙遜する。
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