横浜港と運河
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/28 09:01 UTC 版)
大通り公園周辺は、江戸時代初期まで南北を山に囲まれた入り海であったが、明暦2年(1656年)より吉田勘兵衛がこの地を埋立て吉田新田と呼ばれていた。 横浜開港後明治時代に入り、横浜港と市街地、後背地を結びつける運河の開削事業が行われ、明治3年(1870年)に根岸湾から内陸を結ぶ堀割川が開削された。その時の土砂により吉田新田の沼地の一部が埋め立てられ市街地が作られ、その中央を貫き吉田川が開削された。 群馬県出身の横浜商人で、第七十四国立銀行の初代頭取である伏島近蔵(ふせじま ちかぞう)が中心になり、吉田新田の残りを埋め立て市街地を広げ、吉田川が延長され明治29年(1896年)に誕生したのが新吉田川である。伏島近蔵(北海道との関わりでは開拓事業にも参加した)の功績を記念し、没後40年にあたる昭和15年(1940年、皇紀2600年でもある)8月に建立された顕彰碑は、かつて彼が中心になり築いた新吉田川と新富士見川の交差する駿河橋付近にあったが、現在は吉田新田の鎮守であったお三の宮日枝神社境内に移されている。 横浜には現存する大岡川、中村川、堀川、堀割川の他に、現存しない小松川、派大岡川、吉田川、新吉田川、新富士見川、富士見川、日ノ出川、桜川という川があった。このうち小松川は堀であり下水道の要素が強く、明治初期に埋め立てられたが、他は横浜港と一体化した運河として縦横に横浜市街を流れていた(横浜市中心部の廃河川も参照)。横浜湾、市街地、後背地、根岸湾まで舟で結ばれる大運河網であり、横浜港の水運を支えていた。 昭和30年代より高度成長時代に入り、モータリゼーションの進行により水運が衰え、運河も次々と埋め立てられてゆき、吉田川、新吉田川も昭和48年(1973年)からの工事により消滅した。
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