松島(現竹島)について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 05:45 UTC 版)
日本から竹島(鬱陵島)に渡る途上に松島がある。松島が記述された日本の最も古い文献は、1667年(寛文7年)に編纂された松江藩士斎藤豊仙の『隠州視聴合記』があり、また江戸元禄時代には、日本から竹島(鬱陵島)の行き帰りに松島をある程度利用していた記録もある。天候などの条件がよければ松島から竹島(鬱陵島)が見えることもあって、日本にとっては竹島(鬱陵島)に渡る為の航海の指標や暴風時などに一時避難ができる重要な島であったことは確かである。幕府の渡航許可の公文書は見つかっていないが、大谷家の記録によると、竹島一件以前に幕府から竹島(鬱陵島)とは別に松島への渡海免許が出され、同家は松島での漁労も行っていたようだ。 明治時代に「竹島外一島之義本邦関係無」といった「竹島外一島」が鬱陵島と松島であるように捉えられる公文書もあるため、日本は「竹島一件」において松島を竹島(鬱陵島)の属島と見なし同時に自ら放棄していた、とする考えが韓国側を中心にある。しかし、竹島一件の当時、朝鮮との交渉において松島の名は一切出てきておらず、朝鮮側の地図を見ても朝鮮政府は松島を全く認識していないことが分かる。朝鮮王朝実録の肅宗実録に、賎民である安龍福が「松島は子山島である。これもまた我が国の地だと言った」などの供述を行ったという記録があるが、当時の朝鮮は日本への不法渡航の罪となった安龍福の言動は朝鮮を代表するものではないとしている。その後の竹島事件においても幕府の筆頭老中だった浜田藩主松平周防守康任が「竹島(鬱陵島)は日の出の土地とは定め難いが松島なら良い」としたことや、「松島へ渡航の名目をもって竹島(鬱陵島)にわたり」との判決文の一節から、竹島(鬱陵島)への渡航は禁止したが松島への渡航は禁止されていなかったと考えられる。また、1820年に浜田藩儒の中川顕允が編纂した石見外記に高田屋嘉兵衛の北前船が竹島(鬱陵島)と松島の間を航路として使用していることも描かれていることから、現在の日本では当時から松島(現在の竹島)を自国の領土だと考えていたとしている。 なお、竹島一件の原因となった安龍福は1696年6月に自ら日本へ渡り、竹島(鬱陵島)が朝鮮領であると訴えるが、この時の安龍福の言動は竹島(鬱陵島)をめぐる外交交渉には全く影響を与えていない。幕府が竹島(鬱陵島)への渡航を禁じる旨を朝鮮に伝えたのは1697年(元禄10年・粛宗23年)正月だが、幕府が渡航を禁じる決定をしたのは、それより早い1696年1月だからである。このことは、安龍福がこの時幕府より異国人の窓口は長崎であると追い返されていることや、朝鮮では日本へ渡ったかどで流罪に処せられていることからも分かる。 しかし、安龍福の松島を于山島だとしている発言は、その後その所在が明らかでないまま松島が于山島であり朝鮮領であるとの認識を朝鮮政府(李氏朝鮮)に定着させ、結果的に今日の竹島問題に大きな影響を与えている。
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