東武百貨店以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 10:16 UTC 版)
古屋一族の古屋勝彦副社長が50歳になるのを待ち、1989年12月に社長を譲って辞して会長になった。翌1990年の春に、松屋の取締役や東武鉄道および東武百貨店会長を務めていた根津嘉一郎は、同じ甲州出身で親しい松屋の古屋家から松屋の経営再建の手腕に対する高評価を聞き、東武百貨店の社長への就任を山中に打診した。当時東武百貨店常務であった根津公一に対し、帝王学を授けることも目的であったと報じられている。松屋の業務に配慮してこれを断ったため、根津は自ら会長から社長に復帰する異例の人事を5月に行っている。再度の誘いを受け、松屋社長時代に相談役を務めていたこともあって7月16日に山中は東武百貨店社長に就任した。また、これに伴い松屋では会長を退任して相談役となった。 就任以前から、芝浦工大附属高の跡地開発に合わせて2年後に池袋本店の大増床が決まっており、日本橋や銀座の三越や髙島屋にならった海外の有名ブランド中心のテナント選定が計画されていた。これに対して、ブランド志向の終焉が近いことなどから池袋らしさを前面に出した店舗にする方針を掲げ、「親切一番店」というスローガンを発表した。また、東武においても松屋の『山中塾』同様に社員との直接対話を徹底して行った 1992年6月の池袋本店の全面改装開業に際しては、自らイギリスまで交渉に赴いてキュー植物園展を企画・開催し、またマスコミの取材を一切断らなかった。当時は消費不況が始まった時期だったが、改装後1年間は売上の二桁増加が続いている。1992年には、それまでの各百貨店の活性化などを讃えて毎日ファッション大賞の特別賞が送られている。一方、在任中はバブル期に生じていた不動産債務の処理や、百貨店全体の人気低下などに苦しんだ。1997年10月には坂倉芳明の退任を受けて日本百貨店協会の会長代理に就任した。 晩年はがんに冒されるが、それでも現場で陣頭指揮を執り、特に午前中、実際に売場では商品分類や陳列方法を販売員や売場責任者などに指示していたほどであった。1999年1月、体力の限界を理由に副社長であった根津公一に社長の座を譲り会長に就任。記者会見で根津氏について『経営手腕は抜群で以前から後任に考えていた。2世といわれるが、根津氏に限っては不安はない』とまで言い切った。 同年9月26日に腹膜炎のため逝去。キリスト教徒だったため、最期にルルドの水を含んで亡くなったという。
※この「東武百貨店以降」の解説は、「山中鏆」の解説の一部です。
「東武百貨店以降」を含む「山中鏆」の記事については、「山中鏆」の概要を参照ください。
- 東武百貨店以降のページへのリンク