東京盲学校での学習と生活
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「ヴァスィリー・エロシェンコ」の記事における「東京盲学校での学習と生活」の解説
エロシェンコは、1914年5月11日に東京盲学校を訪ね、按摩術とマッサージ研究のための入学を許可される。東京盲学校の生徒は、年齢がばらばらではあったが、エロシェンコは他よりも年輩で、堂々たる偉丈夫であった。日本語が上手で、生徒と按摩の練習をしたり、話しあったり、相撲で遊ぶこともあった。盲学校の生徒を対象に、エスペラントの講習会を何回も開いた。熱心に学んだ人たちに、鳥居篤治郎、平方龍男、新津吉久、斎藤武弥・百合夫妻、三谷復二郎、熊谷鉄太郎、今関秀雄らがいる。また、これらの人々に、バハイ教の教義をも教えていた。のちに外国の盲人組織とも連携して日本盲人会連合会長として活躍する鳥居篤治郎の仕事も、このエスペラント学習に負うところが大きい。通常授業の前に小川源助に按摩術を習い、他の生徒とともに練習した。校内で他の生徒と同格での講演・ギター演奏・バイオリン演奏をすることもあった。1916年5月6日に築地盲人技術学校で開かれた中央盲青年会で講演をしたのは、小森(技術学校教師)・平方龍男・エロシェンコ・高木正年・立花盲人会長・斎藤武弥であった。当時の盲人会の重鎮と並んで講演していることからも、エロシェンコの当時の立場が察せられる。しかし、1921年、思想的に危険人物と疑われ国外に追放される。
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