来歴と作者の同定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 05:22 UTC 版)
「ファン・デル・パーレの聖母子」の記事における「来歴と作者の同定」の解説
『ファン・デル・パーレの聖母子』は、1794年に始まったフランス軍の北ネーデルラント侵攻によって略奪され、ルーヴル美術館へと収蔵された、ネーデルラント絵画、フランドル絵画を初めとするおびただしい数の美術品の一つである。このときの略奪美術品で初期フランドル派の作品としては、ファン・エイク兄弟の『ヘントの祭壇画』の中央パネル、ハンス・メムリンクの『モレールの三連祭壇画』、ヘラルト・ダヴィトの『カンビュセスの審判』などがあった。そして、1816年になってから『ファン・デル・パーレの聖母子』を含む多くの美術品がブルッヘに返還されている。しかしながら後にこの返還は、美術品の管理権と所有権をめぐるフランスとオランダ間の論争に巻き込まれる結果となった。 『ファン・デル・パーレの聖母子』が最初にヤン・ファン・エイクの作品であると判定されたのは1847年のことで、ドイツ人美術史家グスタフ・フリードリヒ・ワーゲン (en:Gustav Friedrich Waagen) によるものだった。その当時は、それまで何世紀にもわたって忘れられた存在だったヤン・ファン・エイクを含む初期フランドル派の絵画が見直されつつあり、わずかに残る画家や作品に関する歴史的文書をもとにした研究が行われていた時期でもあった。ワーゲンは作者の同定の根拠をフレームの献辞に求め、さらに「極めて写実的」な作風と油彩をぼかす高い技術からヤン・ファン・エイクの作品ではないかと判断した。しかしながら、ワーゲンはフレームの献辞を完全に解析してはおらず、「神の栄光を満喫した」という聖ドナトゥスの献辞を「満喫することはできなかった」と解読している。ワーゲンも当時のほかの美術史家と同様に、より抑制された簡素なメムリンクの作風を評価する傾向にあり、『ファン・デル・パーレの聖母子』については、「まれに見るほどに醜い」聖母マリアを見つけたとする一方で、聖ゲオルギウスについて「断じて聖なる存在ではない」という評価をしている。
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