本格的設置の始まり
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1938年、慰安所の数が増え、管理体制が決められ、それまで個々の軍がやっていたことを兵站の一部として設定される。 このときの慰安婦の募集では、地方警察に無連絡であり、日本国内法の常識から大きくはずれる点が多く、誘拐と疑わしいトラブルが、警察との間に生じた。日本では公娼が廃止の方向に向かっていたこと、「からゆき」といわれる主に南方の海外娼婦を廃止させた(1920年)政策も背景と見られている。 1938年2月に内務省警保局から地方にあてた「支那渡航婦女の取扱に関する件」と題する通達では、海外渡航の売春関係の女性が増えていること、その中には、軍が了解していると言って回る者が頻発しつつあるとし、取り締まりの基準として、成人以上で親族・本人の同意を直接確認するなどし、社会問題が起きないよう広告を禁じている。これを受けた3月には、陸軍省から華中派遣軍に対して、業者による募集が誘拐に類するものなどが少なくないなどの懸念を通知し、軍の威信保持、ならびに社会問題上遺漏なきようにとの指示が出されている。 1937年までは、風俗関係の取り締まりが地方領事館によって一定でなかった。当時の上海などでは取り締まりの厳格さのために新規営業を認めない方針であったが、1938年以降、日本軍占領地域での犯罪の防止と治安維持のために、民間業者による軍人専用の「特殊慰安所」の設置が始まり、多くの施設が作られた。 1941年の太平洋戦争開始に伴い慰安所は太平洋地域へも拡大したと考えられている。 慰安所は1942年9月3日の陸軍省人事局恩賞課長の報告「金原日誌」によれば400箇所が設営された(地域別の内訳は北支100、中支140、南支40、南方100、南海(南西太平洋)10、樺太10)。しかしこの報告書で言及された施設のすべてが慰安所であったかどうかは不明であり、新設計画を含めたものかどうかも不明である。秦郁彦は、陸軍の慰安婦関係は1942年の4月から人事局恩賞課が担当したが、1942年夏に要望があったがうまく派遣を実行できず、業者が部隊と連絡して行なったという。資料の「金原日誌」9月3日には将校以下の慰安施設として数字があるだけであると指摘している。
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