晩年と著作とは? わかりやすく解説

晩年と著作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 08:47 UTC 版)

ライマン・フランク・ボーム」の記事における「晩年と著作」の解説

オズの魔法使い』が小説舞台両面大成功したことを受けてボームとデンスロウは柳の下の3匹目のドジョウ狙い1901年に"Dot and Tot of Merryland"(陽気な国のドットトット)を発表した。この本はボーム屈指の駄作で、その失敗ボームとデンスロウの気まずい関係を更に悪化させた。彼らが組んで仕事をしたのはこれが最後となった1904年以降ファンタジー作品ではジョン・R・ニールJohn R. Neil)がイラスト担当するようになった。ただし彼らが顔を合わせたことはほんの数回しかない。またボームニール画風ユーモラスな雰囲気足りない感じることがしばしばであったし、ニール勝手に"The Oz Toy Book: Cut-outs for the Kiddies"(お子様のための切り抜くオズ絵本)を出版した時には特に不快感露にした。 オズ・シリーズ書き続けている間、ボーム何度もその巻を最終巻にして別のシリーズ(『サンタクロースの冒険』や"Queen Zixi of Ix"(イックスのジクシー女王)など)に集中したい訴えた。しかし一般読者からの要求子供たちからの手紙、そして新作失敗打ちのめされ毎回オズ・シリーズに戻るのが常であった。とは言っても彼のオズ以外の作品その死後忘れ去られたわけでもない。"The Master Key"(マスター・キー)という長編1920年に"St. Nicholas Magazine"(セント・ニコラス・マガジン)が行なった「お気に入りの本」調査で、良い成績見せている。 演劇懸ける終生愛情のために、彼はしばし凝ったミュージカルに対して資金出し、そして失敗したボーム最悪赤字もたらしたのは1908年の"The Fairylogue and Radio-Plays"(妖精譚とラジオ劇)である。これは幻灯生身役者組み合わせた先駆的な見世物であったが、借金で首が回らなくなったボーム初期作品(『オズの魔法使い』を含む)の著作権売却する羽目陥ったその結果初期作低品質版が出回ることになり、ボーム名声下落し、その新作までが売れなくなったボーム蔵書タイプライター、など手放せ財産徐々に放出して行き最後に無一物となったボームによるオズ・シリーズ最終巻『オズグリンダ』は彼の死後である1920年刊行されたが、シリーズ長い間べつの作家たちによって書き続けられた。その代表ルース・プラムリー・トンプソン(Ruth Plumly Thompson)は19冊を書いたボームオズ以外の作品発表する際には変名使用した。以下のようなものがある。 エディス・ヴァン・ダイン(Edith Van Dyne) - "the Aunt Jane's Nieces series"(ジェーンおばの姪シリーズ) ローラ・バンクロフト(Laura Bancroft) - "The Twinkle Talesきらめく物語集)、Policeman Bluejay"(刑事アオカケス) スザンヌ・メトカーフ(Suzanne Metcalf) - "Annabel"(アナベル) シューイラー・ストーントン(Schuyler Staunton) - "The Fate of a Crown"(王冠運命)、"Daughters of Destiny"(宿命娘たち) ジョン・エスティス・クック(John Estes Cooke) - "Tamawaca Folks"(タマワカ族の人々) ヒュー・フィッツジェラルド大尉(Capt. Hugh Fitzgerald) - "the Sam Steele series"(サム・スティール・シリーズ) フロイド・エイカーズ(Floyd Akers) - "the Sam Steele series"の続編、および"The Boy Fortune Hunters series"(フォーチューン・ハンターズ少年シリーズ匿名 - "The Last Egyptian: A Romance of the Nile."(最後エジプト人 - ナイル河ロマンスボームその後演劇界での仕事続けた。『オズオズマ姫』(シリーズ第3作)および『オズチクタク』(シリーズ第6作)を基にした劇"Tik-Tok Man of Oz"(オズチクタク男)はハリウッドそれなりの成功修めた1914年ハリウッド移った彼は、自作映画化するための会社The Oz Film Manufacturing Companyオズ映画制作会社)を起業した。彼は自ら会長プロデューサー脚本家つとめた。この時期に彼が使ったキャスト中には無名時代ハロルド・ロイドがいた。 1919年5月5日ボーム脳卒中倒れた。彼は翌日63歳誕生日9日前)、静かに息を引き取った末期言葉は、昏睡に陥りながらの"Now we can cross the Shifting Sands."であった。 彼はカリフォルニア州グレンデールにあるフォーレスト・ローン記念公園Forest Lawn Memorial Park)に埋葬された。

※この「晩年と著作」の解説は、「ライマン・フランク・ボーム」の解説の一部です。
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