明野陸軍飛行学校分校の設置
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「明野陸軍飛行学校」の記事における「明野陸軍飛行学校分校の設置」の解説
1941年(昭和16年)12月、日本は米英など連合国を相手に太平洋戦争(大東亜戦争)に突入した。戦争の初期は日本軍が優勢であったが、翌1942年(昭和17年)4月には日本本土に初めての空襲(いわゆるドーリットル空襲)を受けた。また南太平洋などの占領地においても連合国軍の反攻により空襲を受けるようになった。特に米国の大型爆撃機B-17は高高度を飛行し、撃墜が容易ではなかった。そのほか米国はさらに大型かつ高性能な爆撃機、B-29を開発中との情報を陸軍では入手していた。 1943年(昭和18年)2月、米国シアトル郊外で大型爆撃機が試験飛行中に墜落し、これがB-29であることが判明すると、陸軍中央の航空関係者は衝撃を受けた。性能の詳細等はまだ不明ながら、長距離飛行が可能で高高度から爆撃できる敵国の新型機がすでに完成し、近いうちに量産化され実戦配備となるのは必至だからである。対策として爆撃機を迎撃する新型戦闘機の開発および現用機種の改修が始められたが、それらを実戦配備する前に飛行学校での用法の研究および教育が必要であった。しかし陸軍航空は外征作戦を主としていたため、明野陸軍飛行学校でも防空戦闘の研究および教育はほとんど行われていなかった。そのうえ1943年は航空の重要性を認識した陸軍中央が、操縦者大量養成の方針をたて、なおかつ陸軍航空の重点をそれまでの重爆撃機から戦闘機に転換した年である。明野は従来の任務だけで多忙であり、防空戦闘のための研究および教育を実施する余裕がほとんどなかった。 同年8月、明野陸軍飛行学校令改正(軍令陸第8号)の施行により、明野陸軍飛行学校分校が設置された。同分校は茨城県那珂郡前渡村(現在のひたちなか市新光町)の水戸陸軍飛行学校施設を利用して置かれたため、通称として「水戸分校」とも呼ばれた。水戸陸軍飛行学校は宮城県名取郡へ移転し、同年10月に仙台陸軍飛行学校と改称した。 明野陸軍飛行学校分校(以下、場合により水戸分校と略)の編制は分校長のもと、幹事、本部、教育部、研究部、材料廠、および学生と定められ、分校長が明野本校の校長に隷属する以外は、ほぼ独立した陸軍飛行学校に近い編制であった。また上述した天竜、北伊勢などの分教所の場合、人員もすべて明野本校の定員内から充当するのに対し、水戸分校は分校長に第5飛行師団参謀長であった三好康之少将を補職するなど「分校」と「分教所」では制度に明確な違いがある。 水戸分校は防空戦闘、特に高高度戦闘、および夜間戦闘を重視した研究および教育を期待されたが、そうした用途に適した新型機の開発が間に合わず、既存の戦闘機を保有するのみであったため、当初想定された研究および教育の着手は困難であった。1943年末、防空戦闘隊要員学生教育を開始したものの、高高度戦闘に関する教育はほとんど実施できず、夜間戦闘に関する教育は照空隊と連携して行う程度で従前とあまり変わらなかった。ただし一部では多摩陸軍技術研究所と協同して電波誘導機で行う防空戦闘や、陸軍航空技術研究所との協同で高高度飛行が操縦者の心身に与える影響などの研究が行われた。
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