明野陸軍飛行学校分校の設置とは? わかりやすく解説

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明野陸軍飛行学校分校の設置

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 18:02 UTC 版)

明野陸軍飛行学校」の記事における「明野陸軍飛行学校分校の設置」の解説

1941年昭和16年12月日本米英など連合国相手太平洋戦争大東亜戦争)に突入した戦争初期日本軍優勢であったが、翌1942年昭和17年4月には日本本土初めての空襲いわゆるドーリットル空襲)を受けた。また南太平洋などの占領地においても連合国軍反攻により空襲を受けるようになった。特に米国大型爆撃機B-17高高度飛行し撃墜が容易ではなかった。そのほか米国はさらに大型かつ高性能爆撃機B-29開発中との情報陸軍では入手していた。 1943年昭和18年2月米国シアトル郊外大型爆撃機試験飛行中に墜落し、これがB-29であることが判明すると、陸軍中央の航空関係者は衝撃受けた性能詳細等はまだ不明ながら、長距離飛行が可能で高高度から爆撃できる敵国新型機がすでに完成し近いうちに量産化され実戦配備となるのは必至だからである。対策として爆撃機迎撃する新型戦闘機開発および現用機種改修始められたが、それらを実戦配備する前に飛行学校での用法研究および教育が必要であった。しかし陸軍航空外征作戦主としていたため、明野陸軍飛行学校でも防空戦闘の研究および教育はほとんど行われていなかった。そのうえ1943年航空重要性認識した陸軍中央が、操縦者大量養成方針をたて、なおかつ陸軍航空重点それまで重爆撃機から戦闘機転換した年である。明野従来任務だけで多忙であり、防空戦闘のための研究および教育実施する余裕がほとんどなかった。 同年8月明野陸軍飛行学校改正軍令第8号)の施行により、明野陸軍飛行学校分校設置された。同分校は茨城県那珂郡前渡村現在のひたちなか市新光町)の水戸陸軍飛行学校施設利用して置かれたため、通称として水戸分校」とも呼ばれた水戸陸軍飛行学校宮城県名取郡移転し同年10月仙台陸軍飛行学校改称した明野陸軍飛行学校分校(以下、場合により水戸分校と略)の編制分校長のもと、幹事本部教育部研究部材料廠、および学生定められ分校長が明野本校校長隷属する以外は、ほぼ独立した陸軍飛行学校に近い編制であったまた上述した天竜北伊勢などの分教所の場合人員もすべて明野本校定員内から充当するのに対し水戸分校分校長に第5飛行師団参謀長であった三好康之少将補職するなど「分校」と「分教所」では制度明確な違いがある。 水戸分校防空戦闘、特に高高度戦闘、および夜間戦闘重視した研究および教育期待されたが、そうした用途適した新型機の開発が間に合わず既存戦闘機保有するのみであったため、当初想定され研究および教育着手は困難であった1943年末、防空戦闘要員学生教育開始したものの、高高度戦闘に関する教育はほとんど実施できず、夜間戦闘に関する教育照空隊と連携して行う程度従前とあまり変わらなかった。ただし一部では多摩陸軍技術研究所協同して電波誘導機で行う防空戦闘や、陸軍航空技術研究所との協同高高度飛行操縦者心身与え影響など研究が行われた。

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