日本着任まで
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1843年、ドイツ東部のヴィスマールにルーツを持つソルブ系ドイツ人(当時はスウェーデン領だったため出生時の国籍はスウェーデン)の父デーヴィッド、イギリス人の母マーガレット(旧姓、メイソン)の三男としてロンドン北部クラプトン(en, 旧ミドルセックス州 現在のハックニー区)で生まれた。サトウ家は非国教徒でルーテル派の宗教心篤い家柄であった。父親は兄弟で一番優秀だったアーネストをケンブリッジ大学に進学させたかったが、階級差別の激しい当時、中産階級出身の非国教徒が学位を取れる保証がなかったため、プロテスタント系のミル・ヒル・スクールに入学、1859年首席で卒業、宗教を問わないユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに進学、ローレンス・オリファント卿著・『エルギン卿遣日使節録』 を読んで日本に憧れ、1861年にイギリス外務省(領事部門)へ通訳生(首席合格、年俸 200ポンド)として入省、駐日公使ラザフォード・オールコックの意見により清の北京で漢字学習に従事した。
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日本着任まで
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「ヒュー・フレイザー (外交官)」の記事における「日本着任まで」の解説
ヒュー・フレイザーは、スコットランド貴族を輩出した名家、フレーザー氏族(クラン・フレイザー(英語版))の分家たるバルネイン家(インヴァネス)の出身である。 1837年2月22日に生まれ、1849年から1854年までロンドン西部のイートン・カレッジで学んだ。卒業後の1855年1月にハーグの無給公使館員に任命されたが、翌月にはドレスデンに異動、さらに1857年8月にコペンハーゲンに異動した。1859年8月に有給公使館員になるための試験に合格し、1862年9月に中央アメリカの英国公使館に配属された。 その後フレイザーはストックホルム、北京およびローマで勤務した。1874年、イタリアでメアリー・クロフォード(Mary Crawford)と結婚。夫人は回想記『英国公使夫人の見た明治日本』によって、没後は夫より歴史上で有名になった。北京の代理公使に転任し、ウィーン、ローマ、サンチアゴと転勤し、1888年4月に在日公使を任命された。
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