日本労働金庫設立構想
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労働金庫を全国統一し日本労働金庫を設立する構想は、過去数度にわたって実現手前まで進んだがいずれも頓挫している。 1976年2月、全国労働金庫協会の肝いりで全国47金庫中42金庫の合併仮調印が実現にこぎつけたが、残りの5金庫が合併しなくてもやっていけると強硬に主張。同年9月、同協会は合併断念を表明した。当時労働界では総評が覇権を有しており、同盟系が主導権を握っていた労金が総評の風下に立つことを嫌ったこと、また自民党政権内に合併は時期尚早との見方が広がり断念に至ったと報じられている。 1989年11月、旧総評と旧同盟などの組織統合によって連合が発足すると労金の全国統合の機運が高まった。翌年1月、全国労働金庫協会内に一本化準備室が設けられ、同年9月、同協会は全国理事会を開き、全国47労金の対等合併に関する基本構想と、大蔵省、労働省との公式協議に入ることを提案。早ければ1994年5月にも日本労働金庫を発足させる方針を明らかにした。しかし、1991年にバブル崩壊による経済状況や各労金における経営基盤の脆弱さも目立ってきたため、合併を見送りを決定した。 1996年、金融の自由化が進展し競合が激化する中、全国労働金庫協会が策定した経営方針である「ろうきん・二十一世紀への改革とビジョン」内において、2010年までに全国統合し、その前段階として、北海道・東北、関東、長野・新潟、東海、北陸、近畿、中国・四国、九州・沖縄の地域ごと8金庫に統合。最終的に全国統合し日本労働金庫を設立する方針を定めた。この方針に則り、1998年10月、近畿地方7庫の合併によって近畿労働金庫が発足。2007年までに全国13金庫までに集約された。また、同年1月には静岡労金と新潟労金のオンラインシステムが労金共同システム「アールワン・システム」へ統合され、システム面での全国統合は完遂した。これを受け2009年6月、全国労働金庫協会と13の労金は合併準備委員会を設置し、2012年4月に合併すると決定した。だが2010年11月に入り、監督官庁である金融庁が合併後のビジネスモデルが明確化されていない点や、そもそも労働金庫法は全国一つの組織となることを想定しておらず法改正が必要であるとの見解を示し、合併の先送りを指導した。その後、合併に向けた動静は見られない。
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