攻囲戦の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 21:26 UTC 版)
「ハンブルク攻囲戦 (1686年)」の記事における「攻囲戦の経過」の解説
8月20日、デンマーク軍はアイムスビュッテル(英語版)へ前進する。その間に、ハンブルク軍はシュテルンシャンツェの守備隊を急いで増強した。デンマークの最後通牒は、市内の政変に繋がった。8月22日、デンマーク軍がシュテルンシャンツェに対する大規模な砲撃を開始すると、親デンマーク的であるとして信用を失ったスニットガーとヤストラムが逮捕されたのである。ブランシュヴァイク=リューネブルク公ゲオルク・ヴィルヘルムはリューネブルクの部隊をハンブルク軍の指揮下に移す。8月25日まではハンブルク兵、リューネブルク兵とスウェーデンの義勇兵が交代で守備に就いていたシュテルンシャンツェが主戦場となった。守備隊の出撃と、スウェーデン士官の指揮下に実施されたアルトナへの砲撃はデンマーク軍の士気を挫き、アルトナの破壊に繋がる。早くも8月26日には、ブランデンブルクとイギリスの提案で停戦が合意に至った。 デンマークの攻囲軍は、ハンブルクを完全には包囲していなかった。堤防門(英語版)とミラーン門(ドイツ語版)では激しい戦闘が繰り広げられていた一方、例えばシュタイン門(ドイツ語版)を通って幾千名もの歴戦のリューネブルク兵が、8月29日以降はブランデンブルク兵ともども繰り返し市内へ来援したのである。クリスチャン5世が増派できたデンマーク兵は2,000名に留まったが、ドイツ諸邦からハンブルクへ駆けつけた援軍は休戦の間に8,000名に及んでいた。9月5日、リューネブルク軍の一部はブランデンブルクの新たな諸連隊と交代した。これによってハンブルク市内には20,000名が駐留することになり、さらに6,000名のブランデンブルク兵がエルベ川を遡って進軍中であった。反撃の脅威に直面したクリスチャン5世は9月6日、オッテンゼンへの退却を命じる。それは9月10日に完了した。
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