攻囲戦の継続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 18:07 UTC 版)
「ダンツィヒ攻囲戦 (1807年)」の記事における「攻囲戦の継続」の解説
町の救援に向けたこれらの試みが失敗した後、攻囲と坑道戦は継続された。5月21日にはモルティエ元帥の軍団が到着し、ハーゲルベルクへの突撃が可能となる。これ以上は耐え切れないと見て取ったカルクロイト元帥はルフェーヴル元帥に和を請い、プロイセン軍が1793年のマインツ攻囲戦でフランス軍に提示したものと同じ降伏条件を提示した。最終的に、この条件はナポレオンによる事前の承認 を経て受け入れられ、守備隊は戦時の名誉を全て保ったまま太鼓を鳴らし、松明を掲げ、軍旗をはためかせつつ行進して退去した。ナポレオンは夏(戦争に適した季節)が近づいたこと、そして後背地の脅威を排除し、部隊を他の場所へ移動させる必要が生じたことから攻囲戦に終止符を打ちたがっていたので、諸条件は寛容だったのである。
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