挑発の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 05:36 UTC 版)
鳥羽法皇が崩御して程なく、事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、勅命により検非違使の平基盛(清盛の次男)・平維繁・源義康が召集され、京中の武士の動きを停止する措置が取られた(『兵範記』7月5日条)。翌6日には頼長の命で京に潜伏していた容疑で、大和源氏の源親治が基盛に捕らえられている(『兵範記』7月6日条)。法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。藤氏長者が謀反人とされるのは前代未聞であり、摂関家の家司である平信範(『兵範記』の記主)は「子細筆端に尽くし難し」と慨嘆している(『兵範記』7月8日条)。 この一連の措置には後白河天皇の勅命・綸旨が用いられているが、実際に背後で全てを取り仕切っていたのは側近の信西と推測される。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。
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