投網・釣り
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芝居がない時は釣り、投網打ちが多い。「生類憐みの令」全盛期であっても、藩からの禁令が出ても、そのようなものはどこ吹く風。サボタージュを決め込み、友人たちとしょっちゅう「殺生」と称して出かけている。 「予、味鏡へ鮠(ウグイ)釣りへ行く。然れども西風吹いて、棹投じるに及ばず。空しく帰る。志賀にて興津安右(興津安右衛門、遊び仲間)に逢ふ。御用水にて酒を給ぶ。鮠十二、三釣り帰る」(元禄6年5月17日) と、部屋住み、かつ新婚にも関わらず出かけており、 「昼過ぎより、予、山崎へ殺生に行く。橋より上十町余を網して打つ。塩(潮)先に鯐(すばしり、ボラの子)を打たんと欲し、暮れ前にまた橋辺に来たる処に塩満ち、深くして鯐一疋も取れず。鯐は塩素凝(干潮)の時、橋の上下二十町余の間を打つといふ。また塩先のそろそろ来る時も吉と。戌半(午後8時ごろ)に帰る。」(元禄8年6月18日) 家督を継いでからは釣りよりも投網(網打ち)が多くなり、友人に頼み大金(金一分)を払って新しい網を作ったりしている。 「予、金谷坊池へ殺生に行く。」(宝永3年9月2日) 「予、昼半ごろより大曾根より金谷坊へ網打ちに行く。暮れて帰る。」(宝永3年9月6日) 「予、昼ごろより瀬左(石川瀬左衛門、前述)、平太(姓名不明)と地蔵池へ網打ちに行く。道すがら酒飲み、楽。帰り、どぢゃう一升求め、三人して食ふ。」(宝永3年9月9日) 「予、昼過ぎより地蔵池へ行く。」(宝永3年9月11日) 「予、昼半より地蔵池へ網打ち。」(宝永3年9月14日) 「予、殺生に行く。地蔵池にて網し、未(午後2時ごろ)前に帰り、また金谷坊池へ行く。鮠、多く得たり」(宝永3年9月17日) と、奉行になってからも飽きることなく、邸宅から10km以上ある地蔵池へ徒歩で何度も出向くなど、「殺生」に夢中であった。
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