戦前のイベリア半島情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 16:16 UTC 版)
「ナバス・デ・トロサの戦い」の記事における「戦前のイベリア半島情勢」の解説
1195年、アラルコスの戦い(英語版)でカスティーリャ王アルフォンソ8世は、勢いに乗るムワッヒド朝のカリフ・ヤアクーブ・マンスールに敗れ、この戦いでムワッヒド朝はトルヒージョ(現エストレマドゥーラ州)、プラセンシア(同)などの重要な町を奪い、タラベーラ・デ・ラ・レイナ(現カスティーリャ・ラ・マンチャ州)、クエンカ(同)、トレド(同)、マドリード(現マドリード州)は落とせなかったが略奪と破壊を繰り返した。そのためタホ川流域以南は依然としてイスラム勢力の支配下に置かれることになった。 しかも同年、その敗戦につけこんだ従弟のレオン王アルフォンソ9世から攻撃を受けた。これは退けたものの、元アルフォンソ8世の部下でマンスールに寝返ったペドロ・フェルナンデス・デ・カストロ(英語版)の仲介で、レオンはマンスールから資金と軍の提供を取り決め、ナバラ王サンチョ7世もレオンやムワッヒド朝と共謀してカスティーリャ領を攻撃した。このようにカスティーリャ王国は、東隣のアラゴン王国とはカソーラ条約(英語版)で国境を定めていたが、北東のナバラと西隣のレオンとは国境紛争が繰り返されている状況であった。 だが1196年にアルフォンソ9世とカストロがローマ教皇ケレスティヌス3世の怒りを買い破門、1197年にアルフォンソ8世の娘ベレンゲラとの結婚で和睦して包囲網が崩れると、同年にアルフォンソ8世はマンスールと10年の休戦を結び危機を脱した。休戦はマンスールの息子ムハンマド・ナースィルとも結ばれ、1210年まで延長された。この隙にアルフォンソ8世はナバラへ逆襲、1198年にアラゴン王ペドロ2世と結託しナバラへ侵攻、1200年までにアラバ・ギプスコア・ビスカヤを奪いバスク地方を併合、ナバラに対して優位に立った。こうしてカスティーリャは劣勢から立ち直った。 一方、トレド大司教(英語版)ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダはキリスト教国間の戦争を憂い、打倒イスラム教へ団結を呼びかけて説得に当たり成果は無かったが諦めず、代替わりした教皇インノケンティウス3世の意向を受けてムワッヒド朝に対する十字軍結成へ奔走した。それが報われ1209年にサンチョ7世とペドロ2世、アルフォンソ8世とアルフォンソ9世がそれぞれ和睦、イベリア半島のキリスト教国の和睦を確認した教皇はコインブラ・サモラ・タラソナのイベリア半島各司教に十字軍の支援を呼びかけ、ムワッヒド朝への決戦に向けて準備を進めていった。
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