成立年代と著者
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成立年代は不詳であるが、後述の写本系諸本のうち1904年に佐村八郎が紹介している『甲乱之記』巻末には天正10年(1582年)8月に小田原(神奈川県小田原市)で執筆された記述があるとされるが、現在この写本は所在が確認されず、検証されていない。版本では江戸時代の正保3年(1646年)に開版したと記されており、成立の下限は同年とされる。 著者は不明であるが、正保3年(1646年)武州江戸開版では末尾に武田家臣春日虎綱(高坂昌信)の甥である春日惣次郎によるとされる評語を記している。『国書総目録』では春日惣次郎を著者としている。春日惣次郎は原本が春日虎綱の口述記とされる『甲陽軍鑑』を虎綱の没後に書き継いだ人物とされ、武田氏の滅亡後は佐渡島で『甲陽軍鑑』を書き上げ、天正13年に死去したという。惣次郎の経歴は写本系『甲乱之記』に記される天正10年8月に小田原で執筆と矛盾し、1967年に服部治則は正保版本の評語の記主は惣次郎ではないとしている。また、2013年に丸島和洋は正保版本の刊行時に存命中の著名な武田遺臣である惣二郎の名を記すことで知名度を高めようとした意図を指摘している。
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成立年代と著者
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「アルタン・ハーン伝」の記事における「成立年代と著者」の解説
『アルタン・ハーン伝』の成立年代と著作者については、コロフォンなどにはっきりした記述がないために、諸説が立てられていて定説がない。しかし、記載内容の年代が比較的はっきりしているため、諸説の間に大差はない。 留金鎖…16世紀末から17世紀初めの何年かの間。 ジュルンガ…1607年の春。 ハイシッヒ…1607年以降。 森川哲雄…1607年から1611年前半までの間。 ヒシクトクトフ…1607年頃。 著者についても諸説あり、大体にしてアルタン・ハーンと同時代の人物とみられている。 留金鎖…アルタン・ハーンと同時代の人であり、仏教徒でダライ・ラマ3世を招くため、アルタン・ハーンの使者として青海のチャプチャル寺に行った。すなわち、仏教経典に精通した学者でアルタン・ハーンの通訳か書記であった。 ハイシッヒ…アルタン・ハーンと同時代ではなく、ダライ・ラマ3世との会見にも参加していなかった。 若松寛…記述内容からしてアルタン・ハーンの側近で仏教に明るい人物(ラマ僧)。 森川哲雄…アルタン・ハーンの孫であるオンブ・ホンタイジが直接書いたのではないとしても、その編纂に大いに関わったということだけは言える。 ヒシクトクトフ…アルタン・ハーンと基本的には同時代の人であった。
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