愛妻・瑤子とは? わかりやすく解説

愛妻・瑤子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:21 UTC 版)

大村崑」の記事における「愛妻・瑤子」の解説

妻・瑤子旧姓)との出会い1959年7月瑤子テレビ番組オーディションディレクター訪問した際、たまたまその場にいた大村と目が合った事がきっかけだったという。二人の関係早くからマスコミ嗅ぎ付け報道されていたが、この時、雁之助小雁兄弟にも彼女が居ることを知っていた花登は、これ以上マスコミ報道過熱回避した意向もあり、よみうりテレビに「結婚式テレビ中継」の企画打診する一方、「劇団デモンストレーションにもなるから…」と本人たちを説得。こうして1960年3月1日当時としては前代未聞等しい、3組合同による『テレビ結婚式』が放送された。 瑤子は、片肺失いながらも必死に働く大村日々献身的に支え続けた二人出会いきっかけとなった愛の讃歌」を瑤子が歌うと、その当時のことを思い出し今でも大村は涙を流すという。しかし、結婚生活がすべて順風満帆だった訳ではなく結婚して10年経た頃、大家族切り盛りしなければならないストレスと、多忙を極める夫とは会話ままならない、というすれ違いの生活から遂には“置きテープ”を残して発作的に家出決行し知人頼って単身渡米橘家双方騒動となり、紆余曲折の末、両家空港まで迎えに行くという「事件」を起こしている。この出来事以降大村家事手伝い自分身の回りの事は自ら行い、夫婦コミュニケーション努めるなど模範的な夫へと「改心」し、夫婦の仲はより深まったとしている。 瑤子日本ネイルアート普及させた功労者一人として知られている。1985年、その美しさに魅せられ、本場アメリカで技術習得その後ネイルサロン開設し後進育成にも努めた1986年には「徹子の部屋」に出演2月27日放送分)。司会黒柳徹子インタビューを受けながら、エアブラシ黒柳10指にアート施し、その技術紹介している。元・日ネイリスト協会名誉会長その後2000年ネイル業界から引退2001年以降イタリア語カンツォーネ勉強のため、毎夏イタリアへ留学している。2003年からは本格的に本場カンツォーネ・ナポレターナを学ぶためナポリ毎年渡航関西中心にカンツォーネ歌手岡村瑤子として活動している。 大村との間には2男を儲け長男・純治は日本でも有数のブルース・リーマニア、グッズコレクターとして知られており、次男政治映像クリエーターとして活動している。また次男の妻は元・宝歌劇男役初代宙組組長だった、大峯麻友である。 2010年3月1日には結婚50周年迎え、「大村崑瑤子金婚を祝う会」が盛大に催された。

※この「愛妻・瑤子」の解説は、「大村崑」の解説の一部です。
「愛妻・瑤子」を含む「大村崑」の記事については、「大村崑」の概要を参照ください。

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