恒春古城とは? わかりやすく解説

恒春古城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:05 UTC 版)

恒春鎮」の記事における「恒春古城」の解説

恒春古城は、中央山脈恒春西台地に挟まれ恒春縦谷造られ城郭都市清朝から台湾治めるため派遣され欽差大臣沈葆楨により、光緒元年1875年)に建設開始され光緒5年1879年)に完成した都市囲んでいる城壁長さ880丈(約2.6km)・幅2丈(約6m)・城外側の高さ1丈4尺5寸(約4.4m)で、東西南北四つ城門東門西門・明都門南門)・北門)が設けられていた。また、それぞれの城門おおよそ中間点の4箇所城壁上に砲台が、城壁の外には幅3丈2尺(約9.7m)の溝が造られていた。これは台湾唯一軍事目的のために造られ防御都市であり、台湾で最も当時の状態が保存され遺跡都市でもある。城壁一部は、日本統治時代には住宅建築材料を得るためとして破壊され台湾光復後には道路学校建設のために一部除去されたりした。城壁一部補修され、1980年には南門が、1983年には東門と城大規模に補修されている。補修重ねながらも、清朝時代造られ4つの城門が現在も残っているが、西門車両接触による損傷激しく補修工事継続中である。なお、恒春国中から中正路の間の城壁破壊されたまま再建されていない1935年台湾総督府史蹟名勝天然紀念物保存法従い恒春城史跡指定し保護した光復後1985年台湾政府により二級国定古跡指定された。 南門(明都門) : 墾丁経由し鵝鑾鼻に向かう主要道通過しており、門は道路ラウンドアバウト円環中央建っている。日本統治時代恒春から南湾港に向かう貨物輸送のための軌道敷が門洞を通っていた。城門の上には城復元されている。 西門 : この門は古城北北西にあるが、呼び名は「西門」である。多く住民古城西側居住しており、この門の付近には老街や多く寺院存在する清朝末期古城建設当時は、南門と共に物資搬出ゲートとして機能していた。門の南側洞山には恒春鎮石牌公園があり、日本統治時代忠魂碑兵器整備記念碑など残存している。 北門虎頭山に正対する位置造られた門。門の城内側にM41軽戦車屋外展示されている。 東門満州卑南に続く道が通っていた門。

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