志賀直哉への攻撃
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1948年1月号の「文学行動」誌上で、志賀直哉は太宰治批判を行った。太宰は志賀の批判に対して「如是我聞」の第一回で名指しを避けた「老大家」という表現で志賀を批判した。志賀への批判の背景には、当時大家として崇められていた志賀を、世間は虚像を崇めていると指摘した権威に対する挑戦と、織田作之助の作品に対する志賀の批判に対して、織田が反撃を行った直後に亡くなった件に関しての敵討ちの意味があった。志賀に対しては太宰、織田と並んで無頼派の代表格とされていた坂口安吾もまた、厳しい批判を展開していた。 太宰の批判に対して志賀は、「文藝」1948年6月号で再び太宰批判を展開した。志賀の再批判に激昂した太宰は、「如是我聞」の第三回で今度は志賀を名指して批判した。「あの老人(志賀)の自己破産」、「その老人に茶坊主の如く阿諛追従して」等、太宰の志賀批判はヒステリックな域に達していた。続く第四回でも太宰は「教養は無し」、「弱いものいぢめ、エゴイスト」などと、志賀批判をエスカレートさせていた。この「如是我聞」の第四回が太宰の最期の仕事となった。 太宰としては「如是我聞」では、時期が来たので「この十年間、腹が立っても、抑えに抑えていたことを」「どんなに人からそのために不愉快がられても、書いていかねばならぬ」とした上で、「様々な縁故にもお許しを願い、あるいは義絶をも思い設け」ていると、文壇や友人知人との関係悪化を覚悟しての文壇批判であった。予想通り太宰の友人知人は、文壇の大家、志賀直哉にヒステリックな批判を繰り返す太宰に危惧し、中でも太宰の師匠であり後見人でもあった井伏鱒二は、文壇に大きな影響力を持つ志賀批判は自殺行為に見えた。井伏は「如是我聞」の中止を勧めたが聞き入れなかった。その頃、太宰と井伏との関係も悪化していたのである。
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