復讐を誓う
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:41 UTC 版)
叔父の渡辺助太夫は臼井慕と改名し、六郎の養父となる。六郎は仇の氏名を知ろうとするも、そのすべもなく悲嘆していた同年9月頃、通っていた稽古館で干城隊士・山本克己(一瀬直久)の弟・道之助が級友3、4人を相手に自慢話をしているのを偶然聞いた。兄の克己が家伝の名刀を持ちだし、国賊・臼井亘理を斬殺して、名刀の歯を欠けさせたのだという。 六郎は天のお告げと家に飛んで帰って養父に父の仇が判明した事を報告し、復讐したいと申し出た。しかし養父は「復讐は大昔から国の大禁である。己で復讐をしたいのであれば、文武を学び、そのことわりを研究し、その後で己で決める事だ。軽々しく粗暴な挙動に出てはならない」と堅く戒めた。仇の山本家は丹石流剣術指南の家柄で、並の大人でも太刀打ちできる相手ではなかった。また吉田悟助ら干城隊一派の天下である今、不用意な言動は慎まなければならなかったのである。またある日投書があり、母の殺害犯は萩谷伝之進である事が判明した。父の殺害犯山本と共に名が書かれていて、世上の噂とも一致し、六郎は復讐の念を募らせて再三養父や親族に訴えるが、大人達はそれを許さず、学問をして志を堅くし、その後に自分で決める事であると諭した。六郎は心苦しみながらも、非道の敵を討つ事が自分の使命だと思い定め、父母の無念を晴らすべく武術と勉学に打ち込んだ。 事件の翌年、明治と改元、1871年(明治4年)7月14日、廃藩置県が発布される。亘理暗殺事件で秋月藩の非法を宗藩に訴えて福岡に幽閉されていた藩士11名が釈放され、その中に亘理の次弟である上野月下がいた。月下は身体が癒えると、秋月を嫌い東京へ出た。1872年(明治5年)、15歳になった六郎は密かに東京の月下に父の仇を知った事を書き送った。月下からの返事には、次兄・慕(助太夫)から聞いた話として、事件の真相が書かれていた。 御殿の門番の者が、山本克己の父・亀右衛門が息子への怒りを口にしていたのを聞いていた。亀右衛門は亘理の改革の支持者であったが、息子の克己が家伝の名刀を持ち出し、刃こぼれさせた理由を問いただすと、亘理暗殺に使った事を白状した。亘理を尊敬していた亀右衛門は怒り、息子を手討ちにしようとまで思ったが、亘理暗殺は家老・吉田悟助も合意の上での、いわば「上意討ち」であると言われ、それも出来なかったと嘆いたという。 この年に山本克己が東京に移住した事を知り、六郎はむなしく東の空を仰いだ。 1873年(明治6年)2月、「仇討ち禁止令」が出される。 1876年(明治9年)5月、19歳の六郎は三奈木小学校の教師となる。一刻も早く東京へ向かいたい六郎はその3ヶ月後、親族の木付篤が上京する事を知って、養父に東京に出て新しい学問を学びたいと申し出る。同行者もいる事から東京行きを許され、8月23日、父の形見の短刀を密かに携えて木付と共に秋月を旅立った。
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