後半戦と戦線の膠着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/18 10:27 UTC 版)
「第二次マラーター戦争」の記事における「後半戦と戦線の膠着」の解説
シンディア家とボーンスレー家が降伏したのち、ヤシュワント・ラーオがようやく動き出した。 ヤシュワント・ラーオは、イギリスがシンディア家・ボーンスレー家との間で行った一連の戦いを綿密に調べ上げて研究し、そこから何かを読み取った。彼がシンディア・ボーンスレー連合軍の戦闘を呆然と見ていたのも、下手に手を出して敗北するより、戦術を見極めて勝利をつかむやり方のほうが効率が良いと判断したからだった。全てはこのためだった。 1804年上旬には、ヤシュワント・ラーオ・ホールカルはイギリスに講和条約を結ぶよう説得されたが、両者の交渉は決裂した。4月16日、リチャード・ウェルズリーは交渉の打ち切りと、戦争の続行を決定をした。ここから長期にわたる両者の戦いが続いた。 7月8日および9日、ヤシュワント・ラーオの軍はムクンドワラ峠の戦いでマンソンの軍を破った。また、6月から9月にかけては、別の幾度かの戦いで英国の軍勢を破るなど、緒戦での勝利を収めた。緒戦での理由はシンディア家のような大量のヨーロッパ式の歩兵を使わず、多数の騎兵を駆使して敵を翻弄するマラーター本来の戦術をとり、イギリスが決定的な戦闘に持ち込めなかったことがあげられる。 8月になると、ヤシュワント・ラーオはついにはアーグラを脅かした。同月22日にアーサー・ウェルズリーがバージー・ラーオ2世の軍ともにプネーから出陣し、ホールカル家の領土の一部を奪った。このことを知ると、ヤシュワント・ラーオはマトゥラーに滞在し、イギリスから領土を取り戻す戦略を立てた。 10月8日、ヤシュワント・ラーオはムガル帝国の首都デリーを包囲、攻撃した(デリー包囲戦)。これは1803年9月以降イギリスのもとで年金生活者として生活していた皇帝シャー・アーラム2世を解放するためであった。だが、同月15日にジェラルド・レイクの奇襲を受け、ホールカル軍は壊滅的な打撃をうけ、19日に撤退した。けれども、シャー・アーラム2世はヤシュワント・ラーオの武勇を褒め称えたという。 撤退したヤシュワント・ラーオは兵を集め、11月14日にイギリス軍とファッルハーバードで戦ったが敗北した(ファッルハーバードの戦い)。彼はディーグ城に逃げ込んだが、12月11日にイギリスはそこも包囲し、24日にこれを陥落させた(ディーグ包囲戦)。 ヤシュワント・ラーオは彼の同盟国バラトプル王国へと逃げ、1805年1月2日にジェラルド・レイクはその首都バラトプルを包囲した(バラトプル包囲戦)。イギリスはバラトプルに対して、幾度かの攻撃を行ったが失敗したため、2月22日に撤退せざるを得なかった。
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